冬の日暮れは早い。ただでさえ暗い山道はすっかり冷え切って、通る者を凍えさせるだろう。だから、こんな日は足早に帰るのが一番だ。それが分かっていても、瞠の足取りは重かった。
 担任教師が休みを取ると聞いたとき、落胆しなかった生徒は少なかった。彼はよく生徒の話を聞く、親しみやすい大人だったから。けれど、瞠がそのとき顔を上げられなかったのは、落胆のせいではなかった。彼は失望していた。担任にではなく、自分自身に。
 瞠もまた、彼のことを慕っていた。彼は瞠の話をよく聞いてくれた。ユーモアのある、懐の深い人だった。だから油断した。踏み込んだ。好きだと伝えたくて口にした。
「先生はちゃんと忘れられるはずだよ。その人のこと」
 間違いはすぐに分かった。 彼は幽霊を見たかのような顔をした。誰からそれを、どうして今更、なんでここまで来て、取り留めもなく呟いて、その場に泣き崩れた。ああ、またやってしまったと瞠は思った。どうしていつもこうなんだろう。俺はただ、この人に近づきたかっただけなのに。
 次の日、目を赤くしてやって来た教師は、休みを取ると告げた。瞠と彼の目が合うことはなかった。もう二度とないだろう。
 考えているだけで悲しくなって、瞠はカバンをぐっと握った。下を向いていると涙が出て来てしまいそうで、思い切って顔を上げる。
「あ、やっぱり瞠くんだ」
 そこに、見慣れた黒い服の男がいた。瞠にとってほとんど唯一の、親しい大人が。
「そうじゃないかと思ったんだよね。今帰り?」
 とっさに言葉を返せずに、瞠はまた俯いた。 ふう、と息を吐いて、神波誠二は微笑んだ。
「どうしたの。また何かやった?」
「俺が悪いの前提なわけ」
「図星じゃない」
 笑顔を崩さぬまま、彼は瞠を覗き込む。
「今更気にしたって仕方ないよ。いつものことでしょう」
「そういう訳にも行かないだろ」
「無駄だよ」
 扉を閉ざすように誠二は言い切った。 その頑なさに、瞠は恐る恐る顔を上げる。子どもの強情さを滲ませて、誠二は断言した。
「どうにかなんて、なりっこない。君だってとっくに呪われてるんだから」
 瞠は息を吸った。冷え冷えとした空気が喉を刺す。そのまま声は凍てついて、何の音にもならなかった。
 ほんの僅かな沈黙の後、誠二はまた微笑んだ。人好きのするいつもの笑みだ。
「帰ろう。ここは冷えるよ」
「どこかに行く途中だったんじゃないのかよ」
「身体の冷えた子どもを言い訳にすれば、キャンセルできるくらいの用事だよ」
 どこか楽しそうにさえ言う困った大人に、瞠はため息をついた。
「お前、面倒なだけだろ」
「そうだよ?」
 とどめとばかりに片目がつぶられる。瞠は思わず笑ってしまった。誠二も笑う。本当に馬鹿みたいな、こんな小さなことで。 まるで子どものように。
 困った大人とは言ったけれど、本当は瞠も気づいていた。誠二は、どちらかといえば大人になれずにいる方の人間だ。 彼は彼なりに懸命で、残酷で、とても許されはしないだろう。それでもよかった。たとえ打算や傷の舐め合いでも、誠二は瞠から離れなかったから。瞠の言葉に傷つき、顔をしかめ、嫌味で応戦したけれど、それでも瞠を捨てなかったから。
「しょうがないな」
 笑顔を残したまま、瞠は呟いた。
「帰ろう、誠二」
 一緒に帰ろう。たとえもうどこにも行く場所がなくても、互いが互いの居場所であれますようにと、小さく祈りながら。
 やがて潰えかけることになるその祈りは、それでも最後にはまた輝いた。澄み切った空に浮かび始めた小さな星々のように、たとえ見えなくなっても、失われることはなかった。


薄暗い作品ですみません。色々考えていたらこうなりました。
この一年、いろんなことをいっぱい考えさせてくれて、
胸をいっぱいにしてくれて、本当にありがとうございました!
この作品が本当に大好きです。


◆ ひなた
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