『Maybe All Right!』

 扉が開き、一人部屋に特有の寒々しい光がパッと闇を散らした。師走の枯れた夜景を切り取っていた窓は、忽ち黒い鏡に変わり、住人と招かれざる闖入者の姿をぼんやりと映し出す。
「ううっ、寒い……暖房入れとけば良かった」
 底の浅い段ボール箱が床に投げ出され悲鳴を上げた。二の腕をさすり、前かがみに空調のリモコンに飛びつく槙原渉の背後で、津久居賢太郎は建物中に響くような勢いで扉を閉める。階下の食堂では子供達が首をすくめているに違いない。
 津久居は爪先に当たった空き瓶を拾い上げた。
「……客を招く態度がなってないな」
「るせーよ。客人気取りかよ」
 ぎろりと飛んできた眼光を物ともせず、麦焼酎の瓶を追いやって腰を下ろす。転々と染みの落ちた薄汚れたラグマット。犬はくんくんと鼻先をクッションに近づける。この部屋のファブリックは全体的にアルコール度数が高そうだ。
「グラスないけど飲む?」
 部屋の中心に鎮座するダン箱から、槙原がマジシャン染みた手付きでジンのボトルをするすると引っ張り出した。半分ほど残った透明な液体が焦らすように揺れる。津久居は肩を竦めた。
「マイカップがある」
「は、持ち歩いてんの? 普通置きカップじゃないの?」
 男は職場に置きカップ――仮に一歩進んで持ち歩く野郎が居たとしても、槙原に文句を言われる筋合いはないだろう。『普通』の基準は人口の数だけ存在する。
「エコだろ」
 四十五度のアルコールをラッパする愚は冒さない。ニヤリと口の端を引き上げ、実際は食堂から浚って来たマグカップを槙原に向かって押し出した。頭上でエアコンが唸り始めているが、未だコートを脱げる温度ではなかった。教育的配慮からわざわざ隔離されてやったのだ。内側から暖を取るくらいのことは許されて然るべきだ。
「ちっ……」
 センブリ茶を一気飲みしたような表情と共に、とぷとぷと小気味良い音を立ててスピリッツが注がれた。キッチンで切ってきたレモンを絞り、乾杯など待たずに口を付ける。からい。そして今は、喉を焼く気分ではない。無言でトニックを追加する津久居を他所に、手酌の槙原は平然と生のままで煽っている。ビールと同等のラフさでジンを干す高校教師を津久居は他に知らない。
「いやあ大漁大漁」
 プハッと、充足の息を吐くと同時に、槙原の声に精気が戻った。戦利品の一つである酒を遠慮の無い角度で再びグラスに注ぐ。どうせボトル一本で済むわけは無いのだし、ペースを合わせれば馬鹿をみる。津久居は酒瓶ではなく目の前のダン箱へ手を伸ばした。クレーンゲームのように指先が獲物をキャッチする。ラッキーストライクのメンソール。キャビンは不味いので放置した。歳暮のしゃぶ肉も効いている。
「頻繁にやってると嫌われるぜ、先生」
 メンソールの気温ではないと思いなおし、津久居はそのまま鍵型の指を離した。ガラクタの上でソフトケースが頼りない音を立てた。
「だから年に二回でしょ。夏期と冬期の大掃除チェックだよ」
「まともに掃除してたのは晃弘くらいだったがな」
 和やかになりきれないムードの中、二人が囲むのは四次元ポケットでも手品師のシルクハットでもなく、室内検査によって没収された品々である。いや、全てが押収品ではない。生徒の善意により寄付された物も多数放り込まれている。ジンと煙草、エロ本少々。いつの間にか隠し撮りされ、引き伸ばして貼られていた二人のツーショット写真は、問答無用で壁から剥がした。期限切れのキャラメルチョコレートといちご味のコンドーム、クレーンゲームのぬいぐるみ、エトセトラエトセトラ……。
 犬猿の仲の二人が珍妙なタッグを組んで回った結果、生徒達の部屋は元の何割分か広くなった。態の良い不用品回収車にされたとも言える。
「生徒にはまっさらな居室と心で年明けを迎えて欲しいじゃない」
 差し向かいの相手と決して眼を合わせようとしないのを除けば、槙原は上機嫌だった。津久居はカップを片手に気取りなく腕を伸ばし、わざとらしい角度で横を向いているフォトフレームを手に取った。彼もよく見知った女性が快活な笑顔でピースサインを掲げている。
「教師にもな」
「勝手に触んなよ」
「っと」
 明確な殺意と共にすっ飛んできたレモンをひょいと避ける。背後で蛙が着地したような水っぽい音が響いた。
 取り返したフォトフレームを、槙原はきっちり壁に向けて設置した。
「未練も年越す気満々じゃないか」
「ほっといてよ。あと、ここ禁煙だから」
「酒と煙草を引き裂くのは無粋だ」
 手持ち無沙汰にした責任は槙原にある。自分の煙草を咥え、白峰の緊急ボックスから拾ったアッシュケースを傍らに置いた。
「吸ってるし。死ねよ」
「肴が足りないんだ」
「しょうがないじゃん。帰省前で冷蔵庫が空だったんだから。それに、無形の肴ならそこにある」
 津久居はしばし表情を消し、槙原の顔色を確認した。うわばみに酔いが回った気配は無い。では、肴とはこのダンボール箱のことだろうか。だとしたら塩よりしょっぱい上に、いささか悪趣味だ。そんな津久居の懸念を裏付けるかの如く、つるりとした眼鏡ヅラへ、意味もなく柔和な微笑が浮び上がった。
「ふふ」
「なんだよ気味の悪い……」
 だめだこいつ、早くなんとかしないと――。
 実際になんとかする気は欠片もないが、そんな独白が胸中に響いたその時、槙原がふわふわと口を開いた。
「なんかさぁ。これ自体が、清史郎君の宝箱みたいだなって」
「……ゴミ箱の間違いじゃないのか」
 表情筋が総動員で渋面を作るのを自覚した。吸い過ぎた煙が体内を巡る間、槙原はごそごそとダン箱の中身を床に移しはじめる。そこには確かに、津久居の弟の持ち物も混じっていた。
「冷たいねー。君だって持ってたでしょう。こういうの」
 槙原が取り出したのは何の変哲も無い、拳大の丸い石ころだ。
「ドラゴンの卵」
「違う。それは彗星の子分だ。余所見していて群れからはぐれた」
 ちゃんと覚えてるじゃない、とばかり、槙原がどこか得意げに苦笑しているのに気付き、津久居は小さく舌を鳴らした。
「未就学児童の頃だ」
 マルボロの箱を叩き、飛び出した一本を咥える。火をつけずにライターを弄ぶ。この調子では、また吸い過ぎるような気がした。
「僕は小学校高学年まで持ってたよ」
 ぎゅうぎゅうに詰め込まれただけあって、ダンボール、もとい即席宝箱はいっこうに空にならなかった。飽きたのか諦めたのか、こちらは既に空きかけている酒瓶を再び引き寄せ、槙原は続ける。
「確かにがらくたなんだけどさ、箱にしまったその時には、ちゃんとそれぞれに意味があるんだよ」
 これだって、と摘んだのは白峰の煙草だ。
「こんなものに慌てて箱に隠すだけの価値があるのって、人生のうちのほんの一瞬じゃない?」
 ま、僕は吸わなかったけどね。
 煙草を投げ出し、槙原は再びゆったりとグラスを傾け始めた。舌に突き刺さる濃度の液体が、いやにさらさらと、喉越し良さそうに流し込まれていく。
「思春期相応にぐれるならまだいい」
 津久居もジントニックもどきで唇を濡らした。妙に口が渇いて、皮膚が煙草に貼り付きそうだった。
「俺の愚弟は、既に園児でも児童でもないんだが」
「だーいじょーぶじゃなーい?」
 間延びした、しかし少しも酔っていない声を発し、槙原が笑う。伏せた眼差しが、床に並べた『戦利品』のひとつひとつの上を撫でるように滑っていった。津久居が見守る前で、槙原は教師の貌をしていた。そうして、『あの頃』を失った大人の貌でもある。
「清史郎君だっていつかわかるよ。流れ星は願いを叶えてくれないし、ドラゴンの卵は孵らないかもしれないけど、お酒片手にこうして箱から取り出して、手足ばたばたさせたり赤面したりしてさ、その瞬間の自分を懐かしむのも悪くないって」
 茅晃弘の部屋に持ち物が増え、和泉咲が来客の前に掃除機を掛けるようになり、白峰春人と辻村煉慈がオープンタイプの灰皿を堂々とテーブルに置くようになる。今は積まれているだけの久保谷瞠のぬいぐるみが『彼の生徒』に嫁入りすることだってあるかもしれない。
 いつか、そういう日が来てしまう。
 望んでも、望まなくても。
「来年か、再来年か……もっともっと後だって、別に遅いことはないんじゃない? それが、彼にとって偶々今年じゃなかっただけだよ」
 そう言ってふっと上体を起こし、槙原はグラスの底を垂直に持ち上げた。
「いっちょあがり! 次次……」
 教育者の片鱗は一瞬で霧散した。
 景気良く転がったジンの空き瓶を前に、津久居は呆れ果てていた。
「えらく優しいじゃないか。先生」
 選んだ言葉は我ながら今ひとつだった。
 ふふん、と槙原がシニカルに鼻を鳴らす。手に料理酒を握り締めているせいでこちらもいまいち決まらないが。
「同じ末っ子として、清史郎君に理解を示したの。粗雑な兄の心配なんて知ったこちゃない」
「………」
 ぼろのエアコンが漸く重い腰を上げたらしく、少しずつ空気が上昇していく。一方で、床に座り込んだ二人を取り巻く静寂は、しんとして停滞していた。トニックウォーターがパチパチと弾ける音まで、やたらはっきりと耳に届く。
「君も案外……」
 俯いてマルボロを咥えたところで声がした。津久居は顔を上げた。

 ――大人になれないねぇ。

 視線は合わなかった。
 料理酒をなみなみとグラスに注ぎ、槙原がため息を吐く。
 それは、津久居の嘆息ともぴったり重なった。
「どっちの台詞だ……」
「僕は大人でーす。だからお酒も好きなだけ飲めます」
 自己管理がどうのと口を挟む寸前、槙原が突然津久居を真正面から見つめ返した。マルボロを取り落としそうになった彼に、にっこりと、満面の笑みが贈られる。
「あとさぁ、それ、ここで火つけたら殺すよ?」

 津久居は性質の悪い高校教師の背後に視線を逃がした。
 開け放しのカーテン。窓ガラスは白く雲り、その周囲のみ容赦ない冷気が漂っているのがわかる。
 沈黙のまま、煙草を手に立ち上がる。
 がたついた窓枠を数センチ滑らせると、後ろから携帯灰皿が飛んできた。なんでもかんでも投げつけやがって。猿か、お前は。
 両手で覆ったライターの灯は、彼に甘い幻影を齎しはしなかった。ただ、やるせない、煤けたフレーバーの煙だけがゆるゆると立ち昇り、津久居は糸に引かれるように空を仰いだ。

 刻が、そこで静止した。

「先生」
 真綿のような吐息。
 宝箱どころか掌にさえ留まらない、その一片は、救いを伸べるほど美しくはなかったけれど。
 一口で煙草を外した彼を、槙原が不思議そうに振り返る。

「雪だ」



一周年おめでとうございます。
これほど登場人物全員の幸せを願ったゲームはありません。
『図書室のネヴァジスタ』に出会えた事に喜びと感謝でいっぱいです。
素敵な作品をありがとうございます!


◆ 佐保
◆ @sahols
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