もしも、もしものもしもの話
※ 捏造設定がいくつかございます。
苦手な方はお気をつけてください。
僕の家は僕とお母さんの2人暮らしだ。
よく友達は僕に、「お父さんがいなくて寂しくない?」と尋ねるけど僕にはお母さんがお父さんの分まで優しくしてくれるから寂しくなかった。
それに僕にはお父さんがいない代わりにお兄ちゃんがいたから平気だった。
お兄ちゃんは僕の本当のお兄ちゃんじゃない。
お兄ちゃんは僕のお父さんの友達だったそうだ。
お兄ちゃんは僕が小さい頃から僕の家に遊びに来てくれる、僕だけのお友達。
夜にお兄ちゃんが遊びに来たときは、僕はいつも布団から抜け出してお兄ちゃんとお母さんがいつも楽しそうに話していている姿を僕はこっそりと見ていた。
そんな僕をお兄ちゃんはいつも見つけ出しては、僕の名前を呼んで、こっちにこいよと誘ってくれた。
大人なのに、お兄ちゃんは僕を子供だからと言っていつも僕を仲間はずれにしない。
だから僕はお兄ちゃんが大好きだった。
お兄ちゃんはいつも賢太郎っていう、人間みたいな名前の犬と一緒に僕の家に遊びに来てくれた。時々お兄ちゃんのお友達も連れてきてくれることもあった。
その人の名前は春人さん。
春人さんは大人の男の人なのに、お母さんみたいに線が細くて女の人みたいに綺麗な人だった。だけど、春人さんはお兄ちゃんよりしっかりしていて、僕とお兄ちゃんが2人で悪戯をしてお母さんを困らしていると、春人さんはお母さんと同じくらいに凄く怒る。僕がお母さんに心配をかけると、ちゃんとお母さんに謝るまで春人さんは僕を許してくれない。そうゆうときの春人さんはとても怖いんだけど、僕がちゃんとお母さんにごめんなさいって謝ると、最後はいつも必ず、そっと頬を撫でる春風のようにいつもの穏やかな笑顔を浮かべて許してくれた。だから僕は春人さんも大好きだった。
そんな風にお兄ちゃんが来るおかげで僕とお母さんの2人きりの家のはずなのに、いつも賑やかだった。だから僕は寂しくなかった。
例えお母さんがお仕事でいなくて寂しくなったとしても、そんな時にお兄ちゃん達はいつも僕の前に現われてくれた。
日曜日や長い休みになると、仕事で忙しいお母さんの代わりにお兄ちゃんは賢太郎と春人さんと僕の4人でどこかに遊びに連れてってくれた。
遊園地や動物園には賢太郎を入れられないから連れてってくれなかったけど、海や川とかに連れてってくれた。海に行けば、泳ぎ方を教えてくれるし、川へいけば釣りを教えてくれた。
僕はお友達と同じように、どこかにお出かけできることが嬉しくていつもはしゃいだ。
お兄ちゃんは僕が悪戯をしても、怒らない。
むしろ僕が悪戯をすると、今度は一緒にお母さんを驚かそうと言いだして2人で新しい計画を立て始める。
当然、いつも最後に悪戯はばれてお母さんに僕達は怒られた。
自分が悪いことをしたから仕方ないけど、いつも優しいお母さんが普段ださないような大きな声で僕を叱る声を聴くと僕はいつも悲しくなる。
元気がない賢太郎がしょんぼりと尻尾を丸めるように、僕は小さくなって俯きながら涙でいっぱいになった瞼をこすって泣いた。
これが僕、1人ならきっとお母さんが許してくれるまでいつまでたっても泣きつづけていると思う。
だけど、お兄ちゃんが一緒にいるときは違う。
お兄ちゃんも一緒に怒られてくれるから、悲しい気持ちはいつもより半分に減ってくれる。それにね、ここからが面白いの。
お母さんがいなくなった後、いつまでもしょんぼりと僕がしていると、お兄ちゃんはこっそりと魔法の言葉をかけてくれる。
「今度はもっと凄いのをやろうな。」
そんなことを言うから、僕の怒られて悲しい気持ちはどこかへ飛んでって、いつもおかしくていつの間にか笑っているんだ。
お兄ちゃんは僕の大好きなお兄ちゃん。
本当の家族じゃなくても僕にとって大切なお兄ちゃんだった。
そんなお兄ちゃんとお出かけするよりも、悪戯するよりも好きなことがあった。
それはお兄ちゃんがいた学校の話をきくことだった。
お兄ちゃんが昔いた学校はお化け屋敷みたいな古いお家があって、学校には怖い七不思議があったんだって。呪い天使の像の腕、鏡の中に引きずり込む生徒会室の鏡、災いを運ぶロザリオ、幽霊棟の開かずの間の幽霊、悪霊に付き纏われる聖母役、存在しない賛美歌とか。
あとはえーとえーと、あっ、ネヴァジスタの本。
たくさんの不思議がある学校に行って、お兄ちゃんはそれらを探したんだって。
そして、そんな不思議なことがある場所にお兄ちゃんは僕のお父さんに出会ったそうだ。
そのことを知った時、僕はとても興奮した。
だって、なんだか物語の始まりみたいなんだもん。
そこでお父さんはそこでどう過ごしたんだろう。お兄ちゃん達と出会ってどうなったんだろう。お母さんの知らないお父さんはどんな人だったんだろう。お父さんのことが知りたいと僕が言うと、春人さんがお父さんの写真を見せてくれた。その写真のお父さんはなんだか僕や僕の友達みたいに明るく笑っていたから驚いた。この写真のお父さんはお母さんの写真のお父さんのように、どこか緊張している感じじゃなくて、お兄ちゃん達と一緒にいるのが楽しくて仕方ないような笑顔で、なんだかずっと見ていていたくなる写真だった。
その日からお兄ちゃん達は僕にお父さんの話を次第にしてくれるようになった。
お父さんは演劇が好きだった。
お父さんは、お兄ちゃん達に優しかった。
お父さんには慕っていた先生がいた。
その先生は、お兄ちゃん達の先生でもあったんだって。
「慕うって何?」
僕が分からない言葉を春人さんに聞くと大好きって意味だよ。って教えてくれた。
お父さんが大好きだった先生。僕はその言葉を聞いた途端、なんだか心も体も一気に熱くなった。お母さんの他にお父さんが好きだった人。
そんな人がお父さんにはいたんだ。
「どんな人なの?優しい人?カッコいい人?先生っていうくらいだから頭がとってもいいんだろうね。真面目なお父さんだったなら、しっかりとして頼りがいがある先生だったのかな。」
そんな風に僕が次々と思ったことを口にするとお兄ちゃんはお腹を抱えて笑いだした。春人さんはなんともいえないような複雑な顔で笑っていた。
なんでなんだろう。
「なんで笑うの?」
不思議に思って聞いても2人は答えてくれない。
・・・本当にどんな人なのだろうか。
なんだか気になって僕まで会いたくなってしまった。
「僕もいつか先生に会ってみたい。」
何気なく、僕は思いついたことを言ってみた。
その瞬間、さっきの笑い声は消え、しんと何もない空間ができた。
その静けさは昔、僕がお父さんに会いたいと言ったとき、お母さんが困って黙ってしまったときと同じものだった。
あのとき、お母さんは困りながらも僕に、会いたいよねって悲しそうに笑った。そんな顔を見てしまったから僕はそれ以上何も言えなくなってしまった。
僕はお母さんと同じようにお兄ちゃんを困らせてしまうのだろうか。
それでも、僕はもう1度同じ言葉を口にした。
「僕もいつかお父さんの先生に会いたい。」
その言葉に春人さんが返事をしようとする。だけど、お兄ちゃんの言葉が春人さんの言葉を遮った。
「いいよ。じゃあ、いつか会いに行こうな。」
「いいの?」
「勿論、いいに決まってるじゃん。」
「やったー。でも、いつかじゃなくて、今がいい!ねえ、いいでしょう。僕、お父さんの先生に会いたいんだ。僕も、お父さんと同じように先生に勉強を教えてもらいたい。」
僕のお願いに珍しくお兄ちゃんは困ったような顔をした。
その顔に僕は驚いた。お兄ちゃんは僕のお願いを大抵聞いてくれるから、こんな風に困った顔を見て僕はとても驚いた。やっぱり僕はいけないお願いをしてしまったのだろうか。
だけど、お兄ちゃんはすぐにいつもの調子で悪戯の計画をたてるときみたいに、にかっと笑って口を開いた。
「今でもいいけど、せっかく会うのだから、びっくりさせたくないか?」
「びっくりさせたい!」
「だろ?絶対そっちのほうが面白いさ。よし、決まりだ!俺に任せろ!」
「うん!」
「いつか必ず会わせてやる!」
「分かった!約束だよお兄ちゃん!」
「おう。俺は約束を守る男だ。だから、絶対いつかお前に会わせてやる。」
そう言ってお兄ちゃんは僕の手をがしって力強く握ったんだ。
この時のお兄ちゃんの笑顔はいつもと違ったことなんて気づかずに、僕はその約束をただ信じたんだ。
だけど、先生と会える日は来なかった。
最初の頃は、お兄ちゃんに会うたびにいつ会えるの?とよく聞いたけど、いつもまだだと言われた。
あとどれくらい待てばいいの?いつ?いつ?
何度も何度も僕が質問するけど、返される答えはいつも同じだった。
だから僕は尋ねるのを止めた。
いつかお兄ちゃんが約束を口にしてくれることを待つことにしたんだ。
だけど、約束が叶う前にお兄ちゃんは突然、僕の前から消えてしまった。
大人だから、忙しいんだ。仕方ないんだ。
お仕事が終わったら、また会いに来てくれる。そう思っていた。
だけど、いつまでたってもお兄ちゃんは僕の前から現われることはなかった。
お兄ちゃんが約束を守ると言ったのに。
僕はお兄ちゃんの言葉を嘘だと思いたくなかった。
お兄ちゃんのいつもの悪戯なんだ。僕を驚かせようとしているんだ。そう言い聞かせて、僕は迷いを消そうとする。
だけど、お兄ちゃんは僕の前からいなくなってしまったことが悲しくて、寂しくて、信じたい気持ちを粉々にこなしていく。
約束したじゃん。僕は信じていたのに、酷い。
大好きだったお兄ちゃんは少しだけ嫌いになってしまった。
だけどお兄ちゃんが大好きだから、嫌いになりたくなかった。
だから約束したことを忘れることにした。
大好きなお兄ちゃんはもういないことにしたんだ。
そうしていくつもの季節が過ぎ、時間が過ぎていく中で僕は約束を果たされなかった約束の痛みを忘れていった。
だけどその約束は僕が忘れかけていた時に訪れたんだ。
僕はいつの間にか中学生になっていて、小さい頃みたいに背も体つきも昔と比べたら変わっていて、時間の過ごし方も小さい頃みたいに遊んでばかりじゃいられなくなっていた。
お兄ちゃんのことも約束も忘れて、繰り返される毎日を忙しなく日常を過ごしていた。
そんな風に毎日をただ過ごす僕の前に、ある日、
お兄ちゃんは僕の前に現われ、こう言うんだ。
「約束を叶えにきた。先生に会いに行こう。」
変わってしまった僕を前に昔と同じように笑って勝手な言葉を口にした。
聞きたいことは沢山あった
。どうして今なの?何をするの?それをしてどうするの?
言いたいことは沢山あった。
何で今更。あなたなんて知らない。早く目の前からいなくなって。
そう言いたかったのに。伝えたいことは沢山あったのに。
なのに、僕の口から出てきた最初の言葉はずっと言いたかった言葉はたった1つだけだった。
「約束、嘘じゃなかったの?」
お兄ちゃんを嫌いになりたくないと思いたくないとずっと隠していた気持ちだった。
声が震えた。
ずっとずっと鍵をかけ蓋をしていた言葉があっけなく、飛び出した。
目がぼやけて霞む景色の中でお兄ちゃんが僕に言う。
「言っただろ。俺は約束を守る男だよ。遅くなってごめんな。」
あぁ、お兄ちゃんは最初から嘘なんてついていなかった。
信じていなかったのは僕だった。
「遅いよ。馬鹿。」
僕がそう言うと、お兄ちゃんはもう1度ごめんと言った。
鉄平の彼女に子供がいるって知ったときから決めていた。
絶対に見つけ出して、鉄平のことを伝えようと決めていた。
2人と知り合って、俺は2人のことが大好きになった。
鉄平が好きだった人、鉄平の血を引いた人。
鉄平の記憶の一部に触れた気がした。
俺は俺の知っている鉄平のことを2人に伝えたかった。
友達だった鉄平がどんなに家や待っている人のところに帰りたかったことを。鉄平には大好きな先生がいたことを、2人は知っておいて欲しかった。
古川鉄平がちゃんと存在したことを覚えてて欲しかった。
だから、俺は先生のことを話したんだ。
だけど、先生に会いたいと言った鉄平の子どもの顔を見て、今、自分がしていることに初めて迷いを持ったんだ。
先生と鉄平の子供を会わせていいのだろうか。
鉄平は俺や春人にとって大好きな友達だったけど、悪いことも沢山していた。
先生に会わせるということは知りたくない事実も知ることになるということだ。
大好きな人が誰かを傷つけたことを知って、悲しい思いをするかもしれない。
自分がすることで誰かが傷つくかも知れない。
昔なら迷わないことに迷った。
本当にそれでいいのだろうか。
自分が約束したことは、鉄平の彼女も、こいつも、先生も傷つけることなのかもしてない。
こんな風に2人に優しくするのは鉄平を救えなかった自分が抱いた罪悪感を薄らげるための、自分のエゴなのかもしれない。
だから、2人の前から姿を消した。
これ以上関わるのはやめることにした。
だけど、その約束を俺は捨てきれなかった。
忘れれば忘れようとするほど、約束をしたときの鉄平の子供の顔が思い浮かんだ。その顔が次第に鉄平の顔と重なった。
捨てきれない思いは俺を苦しめた。
けど、そんなときだった。
俺は思いだしたんだ。兄ちゃんや先生のことを思い出した。
大人になりたくないと泣いた日のこと。間違いを犯そうとしたときのことを。
大切な友達を自分の都合で、ネヴァジスタへ連れて行こうとした。
それがいけないことだって気づきながらも、大好きな友達が大人へと変わっていく姿を見たくなかった。
だけど、そんな俺を救ったのは俺が嫌いな大人だった。
俺が間違っても、酷いことをしても、俺を救おうとしてくれた。
俺の間違いを叱ってくれた。
2人も決して完璧な人間じゃなかった。
間違いだってするし、後悔もする。酷いことだってしたこともあった。
だけど、間違いに気づいたら2人はその間違いをこれ以上に犯さないように、どうすればいいのか迷いながらも、必死に考え続けた。
今、しなきゃいけないことに。
俺が今、鉄平の子供にしなきゃいけないことは、もう1度会いに行くことだ。
俺を待っているあのこの元に戻らないといけない。
俺がすることは本当に間違いかも知れない。誰かを傷つけるかもしれない。
だけど、それでも俺はそれを選ぶ。
もし、あのこが傷ついたら傍にいてあげよう。
あのこが俺を恨んでも受け止めてあげよう。
それが大人になった自分が出来ることなんだ。
自分を守ってくれた、助けてくれた大人のように。
今度は自分が子供を守るんだ。
だから、俺は決めた。こいつと先生を絶対に会わせるって決めたんだ。
約束を守る自分に戻る為に。
もう1度あいつに会おう。
あの日した2人の約束を果たす為に―――
入学式後の、校門の前は多くの生徒とその家族たちで溢れかえっていた。
講堂からやっとのことで外へでると、僕はずっと首元を窮屈にさせていたリボンタイをするりと緩めた。今まで学ランしか着たことがなかったせいなのか、慣れないジャケットとリボンタイがどこか落ち着かなかった。
僕は高校生になった。今日から、家から離れてこの学校の付属の寮に住み始める。
お兄ちゃんと春人さんが過ごした学校。僕のお父さんが最後に過ごした場所。
そして、僕のお父さんがずっと会いたかった先生のいる学校だ。
僕は小さな頃、お兄ちゃんとした約束を叶えにここに来た。
僕がこの学校に入りたいと考えた時、お母さんにこのことを伝えてもいいのか迷った。お母さんを1人にすることだけが、僕の唯一の心配だったし、お父さんが最後に過ごした場所だと知って、お母さんが悲しまないか不安だった。
だけど、僕がこの学校に行きたいことを伝えたとき、お母さんはそんな僕の心配を吹き飛ばすかのように嬉しそうに笑って、僕にその学校に行くことを勧めてくれた。
「いってらっしゃい。その代わり、ちゃんとお家に帰ってくるのよ。」
そう言って、笑うお母さんの姿は本当に、嬉しそうな顔をしていた。
その顔を見て分かったのだ。
きっとお母さんも知りたいんだ。
お父さんがどんな人であっても、彼が最後に過ごした場所、彼が慕った先生がどんな人なのかを。
お兄ちゃんと春人さんが話す先生がどんな人であるかを僕に知って欲しかったんだ。
お母さんは仕事の都合で今日の入学式には来られなかった。
元々、お母さんは忙しいし僕の家から遠い学校だったから、入学式にお母さんが来られない事なんて僕は気にしていなかった。だけど、お母さんはせっかくのおめでたい日だからと言って、そんな僕のためにお兄ちゃんをよんでくれた。
ああっ、お兄ちゃんがいるなら僕は無敵だ。
これからすることも、これからの計画も絶対に成功してみせる。
先生はどんな顔をするのだろうか。
この計画をお兄ちゃんと春人さんと考えたときに、僕がそう言うと、お兄ちゃんと春人さんは、きっと大泣きするって笑って言った。
もしそうなら、僕は嬉しい。だって僕はずっと待っていたんだ。
先生に会える日を。
先生に会ったらなんて言うか、ずっと前から台詞は決めている。
お兄ちゃんと春人さんの前で何度も練習した。
それに僕はお父さんとお母さんの子だ。
だから、本番でお芝居の台詞を間違えることなんて絶対にしない。
お母さんが言っていた。
「お父さんはね、普段は大人しくて人前で台詞なんて言えなさそうなくせにどんな台詞でもね、舞台に立つと皆が驚くくらいはっきりと台詞を言うことができるんだよ。」
だから僕もお父さんと同じようにちゃんと伝えたい言葉を自分の口で伝えるんだ。
遠くでお兄ちゃんが僕に合図をするのが見えた。
お兄ちゃんの隣には僕がこれから会うべき人がいた。
たくさんの人ごみと、距離が離れているせいで顔はよく見えない。
少し残念だけど、どうせ今から会うんだから構わない。
そう思うことにした。
目印は見つけた。
さあ、行こう。震える掌をぎゅっと握りしめ僕は歩き出そうとする。
けれど、いざ足を進めようとした矢先に小さな弱気が僕の足に絡みついた。
ほんの少しの1踏みがこのときだけは出来なかった。
遠くに見えるあの人は、お兄ちゃんから離れだそうとするのが見えた。
待って、行かないで。
どうしよう。不安や焦りだけが増えていく。
そのときだった。暖かな風が通り過ぎたんだ。
穏やかな笑顔を浮かべ、大丈夫だよ、というかのように吹き抜ける春風が僕の背中を押し、いつまでも動き出させずにいた足に一踏みさせた。
さっきまで氷のように固まっていた足は、なんてことなく僕を歩き出させた。
僕は思わず後ろを振り向いた。そこには誰もいないことなんて分かっている。
それでも、振り向かずにはいられなかった。
当然のごとく、振り向いた先にはやっぱり誰もいない。
それでも、僕は僕の背を押してくれた誰かに会いたかった。
僕はもう1度だけ振り向いてから、今度こそ僕は歩き出した。
自分の意思で、力強く、ただ前だけを見つめ歩き出したんだ。
遠くにあった距離は少しずつ、少しずつ近づいていく。
先生の姿がだんだんとはっきりとしていくのが分かった。
僕はさっきまであった緊張や不安を忘れてしまうくらい僕の足は次第に早足になっていった。
早く、早く。急げ、急げ。
心の中に溜めていた気持ちがあふれ出し、僕の足は駆け足になる。
沢山の人ごみの中を僕1人だけ、皆が向かう先より逆流していった。
先生、僕はずっと会いたかったんだ。先生と話をしてみたかったんだ。お兄ちゃんからあなたの話を聞いてから僕はずっとあなたに会える日を心待ちにしていたんだ。お父さんはどんな人だったの。お父さんと先生はどんな話をしたの。ねぇ、先生。
僕もお父さんのように、お兄ちゃん達が過ごしたように先生と一緒にいたいんだ。
大きな流れに逆らい人波を掻き分け、僕はやっと先生のとこに辿り着く。
さあ、いくよ。舞台の始まりだ。
ドアタブを掴みあげて、力強く扉を開くかのように僕は今にも爆発しそうなほど緊張した溢れる気持ちを言葉にして叫んだ。
「先生。」
僕が呼ぶと先生がゆっくりと振り向いた。
僕の姿を見るなり、先生は目を丸くしてまるで夢でも見ているかのように、ただぼんやりと僕を見つめた。
その姿を見て僕は思った。
あぁ、やっぱりお兄ちゃんのいたずらは凄い。
いつだって必ず成功するんだから。
だから、僕もこの台詞をちゃんと言ってみせる。
この計画を成功させるために
僕は何度もみた写真の父さんの笑顔を思い出しながら先生に笑いかけた。
「先生、ただいま。
先生、僕は、俺はね、ずっと先生に会いたかったんだ。
だから、今、先生に会えてとても嬉しいよ。
・・・ただいま。やっと会えましたね。」
そう言って、僕はもう一度笑った。
目の前の人はただ僕の姿を黙視した。
何度か瞬きをして、今、ここにある全てが夢じゃないと確かめた。
沈黙が続く。
自分の心臓の音だけがやたら大きく聞こえた。
だけど、次の瞬間、何も
目の前の人はずっと押し黙っていた唇をゆっくりと開いてこういったんだ。
「おかえりなさい。」
だから、僕も言ってやる。
お父さんの分も込めて。
「ただいま。」
強い突風が桜の木々を大きく揺さぶった。
満開に咲く桜はあっという間に吹き飛び、空から紙ふぶきのように薄紅色の花びらは舞い落ちていく。
ぱらぱらと、ぱらぱらと舞い落ちて、舞台のフィナーレを褒め称えるような大きな拍手喝采のように
澄み渡る空も暖かな日差しも、
悪戯な春風でさえも
今だけは僕達の再開を祝福してくれた。
|