幸せのつづき



 木枯らしが窓を叩く音だけがやけに雄弁な夜だった。
 槙原はぼんやりと食堂の隅でコーヒーを啜っていた。本当なら寝酒といきたいところだが、今夜はまだやるべきことが残っている。アルコールは控えよう、なければ眠れないような日々は終わったのだから。
(さみしいものだけど)
 幽霊棟──教員寮には今のところ槙原以外の人間は住んでいない。昨年までは愛すべきこどもたちが六人同じ屋根の下で過ごしていたが、彼らのうち五人は今年の春ここを巣立った。そして、彼らと卒業を同じくすることのなかったもう一人の住居人である御影清史郎は、五人が去るのに合わせて学生寮に居住を移していた。教師一人生徒一人の環境は色々と問題があるということだろう。これまでも相当厄介ごとが起きてきたのだから今更な気はしないでもないが。
 そう大きいものではないとはいえ、新棟と旧棟を併せた寮は、多人数で暮らす建物だ。己一人で暮らすにはいささか空気が寂しい。怖い──とはもう思わないけれど。
「掃除が大変だよねえ……」
 なんたって年の瀬だ。槙原は普段からそう散らかしたりする方ではない。とはいえ、本腰を入れるなら結構な重労働になりそうだった。正直見ない振りをしてしまいたい。どうせ自分しか使わないのだし。
(だめだめ)
 自分はここの管理を任されてる身だ。この学院は──年輩の教師が多く、赴任して三年目だというのにいまだに槙原が一番の若手だ。当初の陰湿ないじめは(誤解がとけたこともあり)なくなったが、眉をひそめられるような行為はできるだけ避けるべきだろう。
 12月25日で二学期は終了し、学生は冬休みに入った。が、自分も休みを享受できるのかといったら、そんなことはない。年末を侮ってるとあっと言う間に年があけて、ちょいと正月気分でいたらすぐに新学期だ。授業の準備……はまだいいとしても実力テストの草稿くらいはさっさと作っておかなければあとで泣きを見る。
「今年も帰れないかなあ……」
 実家から帰省の催促の電話は頻繁にかかってきていたが、槙原は今のところ色良い返事をしていなかった。前述した通り、忙しいのだ。実家に帰るとどうしても怠けてしまって仕事がはかどらない。せめて年明けの準備ができてから……だが、そう事が簡単にすむとも思わなかった。
 ぬるくなったコーヒーを飲み干す。全然身体が温まった様子はなくて、やっぱりお酒がほしいな、と思った。


 ピンポーン、とインターホンが鳴って思わずびくりとなった。さっと時計に目をやると時刻は21時。まだ宵の口だが、来客があるような場所でもない。何事かとおもった。
 さらに続けて幾度か鳴ったが、槙原が固まったまま動かずにいると、そのうちやんだ。代わりにガチャガチャと音がして、次いで、声。
「あれ、誰もいないのかな、おじゃましまーす。……なんだ、マッキーいるじゃん」
 がらりと食堂の扉をあけた彼は槙原の姿を目にとらえるとにこっとわらった。
「……久保谷くん?」
「うん、久しぶりマッキー。もーピンポン鳴らしたんだから反応してよー」
「あっごめん。幽霊かと思っちゃった」
「あははそっか、ここ人の出入り少ないもんなー」
 ダッフルコートにマフラーを巻いた姿で久保谷瞠は部屋に入ってくると、槙原の前に腰を下ろした。長い髪がさらりと揺れる。去年の秋、ばっさりと切った分はだいぶ伸びたようだ。
「鍵かけてたはずなんだけどな……」
「えへ」
「だめだよそんな特技!」
「マッキーがあけてくれなかったんだもーん」
 悪びれない様子の瞠に槙原はもう、と眉尻をさげ口元をほころばせた。ごめんなさい、と謝らなくなった彼は少し生きやすくなったように見えた。いや、悪いことなんだけどね?
「でもどうしたの急に。あっ、神波さんに何か用事だったとか?」
「あー、あいつのとこというより、まあ孤児院の方に顔出しに。ていうかそこはマッキー、自分に会いにきたとか思っておきなよー。主目的はここに来ること」
「えーなにそれ照れるなあ」
「照れて照れて」
 槙原の反応に気をよくしたのか瞠はさらに嬉しそうに笑った。ふと、かつてのことを思い出す。好意のキャッチボールが苦手だった頃の彼を思い出す。愛情を欲していたのに言葉を信じきることができなかった頃の彼を思い出す……。
「久保谷くん、なんか大人っぽくなったね」
「え? そう?」
「大学生って感じだなー。いいなー」
「あはは、苦学生だよ。毎日バイトして学校行って」
「いいなあ楽しそう」
「来年なったら教育実習で学校にも来るからよろしくしてね」
 教員資格取得のためには母校での教育実習が必要となる。瞠が変わらず教師への夢を持ち続けていることに槙原は胸の奥が暖かくなるような心地がした。
「今日はどうするの? 牧師舎に?」
「えー、ここ泊まってっちゃだめかな」
「うーん……本当はまずいんだろうけど、まあ前に住んでたこともあるわけだし……内緒だよ」
「やったー。ほんとね、年末でみんな実家帰るとかでさ、いいなーって」
 瞠は少し眉を八の字に下げて苦笑するように言った。
「ここを家にしちゃいけないのもわかってんだけどね?」
 それでもどうか、どうかもう少しの間だけは、あの日々を拠り所とさせてほしい。そんな思いを誰がどうして否定できようか。
「マッキーは帰んねぇの?」
「なんだかんだタイミング逃してねー。お盆はまだいいんだけど冬はばたばたしちゃって」
「あはは、なんかあんたらしいや。ね、ね、じゃあさ、俺も年明けまでここにいちゃ駄目かな」
「えっ」
 一日だけの仮宿にするならともかく連泊するのは少し、と槙原が躊躇を見せると、瞠は両手をぱんと合わせてお願いッと切実そうに言った。
「もう……どうせ最初からそのつもりだったんでしょ」
「ほら、マッキーひとりで過ごすよりはさーいいじゃん年越しの瞬間を俺と過ごしてよ」
「口説かれてるみたいだねえ」
「口説かれてよ」
「仕方ないなあ。じゃあ大掃除を手伝ってもらおう」
「するするなんでもするって」
「こきつかうよー。あ、コーヒーいれようか」
 槙原は茶化しながら席を立った。瞠がお構いなくと言ったけれど、どうせ自分ももう一杯ほしかったのでついでだしと手を振った。
 正直なところ彼がここを訪ねてきてくれたのは嬉しかった。教員となって初めて受け持った生徒たち。その中でも彼は──彼らは──どうしたって忘れられない、得難い経験を共有した関係だ。そんな瞠が、卒業したあともこうやって慕ってきてくれるのは喜び以外のなにものでもない。外部者を泊めるのはもちろん御法度だし、教員寮の管理者としてそういった問題の起きかねない事態は防ぐべきと先ほど思ったにも関わらず──なんというか意志薄弱だ。
 二人分のコーヒーをいれて食堂に戻ると瞠は携帯電話をさわっていた。その仕草がどことなく和泉咲を思い出させて、槙原は目を細めた。
「携帯ずっとそれだね」
「んー変えたいんだけどね。機種変も安くないしね。あ、ありがとコーヒー」
「洋食屋仕込みのね」
「なにそれ、なんかこだわりあんの?」
「いや言ってみただけ」
「ぎゃはは」
 瞠は笑ってコーヒーに口をつける。「あ、でもおいしいよ」カップを持つ指先がなんだか様になっていて、時の流れを少しだけ感じた。
「神波さんは年末年始とかどうするのかな」
「あー辻村家が呼んでるっぽいけど牧師舎から出てこなさそうだなー」
「難儀な人だねえ」
「はは、マッキーに言われちゃった」
 瞠はカップを置いて瞼をゆるく伏せた。口元に浮かぶ柔らかい笑み。ああ──やさしくすることが、できるように、なったのだな、と思った。きっとお互いに。
 それはたぶん幸せへの一歩だ。


02


 雑然とした部屋を前にさて、と顎を撫でる。昨夜帰宅した時は、眠気の傍らで確か、明日の休みは掃除らしきものをしようとか考えていたはずなのだが。
 紫煙をふうと吐き出した。
 煙草一本を味わっているうちにそんな気まぐれは遠くへと去ってしまったようだ。別に埃で人は死にやしない。
「貴重な休みだしな……」
 本来ならあるはずのない休暇だった。
 ライター業を営む賢太郎にとって年末というのは締め切りがいたずらにはやまるばかりの代物だ。編集から尻を叩かれている状態だが、ひょんなことからぽっかりと一日の空白を得たのだった。
 睡眠時間は日に日に減り、栄養ドリンクと煙草が恋人だった。当然生活に気を配る余裕などなく、元々整頓されてるとは言いがたい自宅は、今では嵐にでもあったような有様だ。さすがにまずいと思った深層心理が昨晩「掃除しなければ」なんて言う気持ちにさせたものの、目を覚まして煙草をふかしてみれば身体はそれよりも睡眠を欲していた。
(一段落してからでもいい)
どうせ明日明後日でケリをつけなければならないのだ。そのあとからでもまだ年越しには間に合うだろう。きっと。おそらく。たぶん。うまくいけば。
 毎年そういいわけを重ね、申し訳程度に物を部屋の隅に寄せた状態で新年を迎えていることは忘れよう。
「まあ一昨年は違ったけどな」
 ひとりごちて目を細める。一昨年の年明けはこの部屋ではなく、仕事場でもなく、ましてや神社でもなく、ここから遠い山奥の学校で迎えた。そのとき自分は小さな部屋に監禁されていて、手首と足を繋がれていた。──思い出してみるとなかなかシュールだ。非日常の舞台を演じたのは五人の学生と一人の教師、そして弟という役者だった。壮大な悲劇は寸でのところで回避され、細い希望という名の糸をなんとかたぐり寄せた。そんな──決して大団円とはいえない物語だ。細部を無視して世界をなんとか保とうとした演者たちは、その後も何度か窮地に陥り(そして例外なく自分もそこに関係した)、だが糸はまだ切れることない。未来という絵図を織るにはまだ足りないのだろうが、願わくば、優しい世界が続けばいいと思う。正直なところ自分がこんなにも他者を気にかけることがあるとは思っていなかった。いや、目の前で手を伸ばされれば取ってしまう性分ではあるのだけれど、それとは別に、こんなにも切実に。
(あいつらが幸せであるように、と)
 煙草の灰を落としながら、ぼんやりと思った。


 来客は唐突に。
 いや──来客などというものではない。ドアチャイムも鳴らさなければ訪問の挨拶もなく、忽然と現れたそいつは開口一番「うっわー汚ねー……」と身も蓋もない台詞を。
「鍵、」
「合い鍵持ってるもんねーだ」
 驚くようなことはない。いっそ慣れているといってもいい。神出鬼没、電光石火、そんな言葉が本当に似合う実弟──御影清史郎。それはそうとして合い鍵を渡した覚えはないのだが。
「瞠がいたら鍵つくんなくてもいけたんだけどなー」
 ぶつぶつ言いながら、靴を脱ぎ、堂々と部屋に入ってくると、そのままこたつに足を滑りこませた。
「なーなー兄ちゃん、みかんねーのみかん」
「ねえよ。つか、おまえ帰る家間違えてんぞ」
 2学期が終わり全寮制の学院から帰省するのは結構なことだが、ここは清史郎の家ではなく賢太郎の家だ。弟にはきちんと親と妹が待つ実家が存在しているはずなのだが。
「いーじゃん、槙原先生だって『年末年始は家族で過ごしましょう』しか言わなかったんだし、兄ちゃんは俺の家族なわけだし」
 理屈が通ってるんだか通ってないんだかいまいちわかりにくいことを言う清史郎に賢太郎は溜息をひとつ。
 どうせ清史郎の中で賢太郎の元へ来ることは、彼の中で「もう決まったこと」であり、ここで賢太郎が実家へ帰ることを促そうとしたところで、そう簡単に引き下がるわけもなかった。仕事だなんだ言ったところで聞きやしないだろう。賢太郎は早々に諦めた。清史郎は手のつけられないほど奔放な行動をとるが、その実きちんと手綱を握ってさえいえば一緒に過ごすのはそう難しくない。伊達に何年もこれの兄をやっていないのだ。
「にーちゃん、年末って予定ないよな」
「ないのが前提で話すなよ」
「えっあるの。あってもしらねえけど!」
 予定を確かめた意味は。
「まあどうせ仕事終わるのがぎりぎりだからな……」
「やっぱ暇なんじゃんよかったー」
 決して暇ではない。徹夜明けでどろどろしているはずだ。下手すると液状化から一歩進んで気体になっているかもしれない。
「せめて家には連絡しておけよ」
 別に心配なんかしねえよあの人ら、と清史郎が言ったが賢太郎は首を振った。線引きは必要だ。
「一緒に暮らすって言ったくせに……」
 清史郎がぶーたれたがこれも無視。口約束をいつまでも、とは思うが、それを支えにこいつが夜を乗り越えて来た幾年が確かにあったのだ。不用意なことを口にしては水掛け論にしかならない。
「学校はどうだ。もうすぐ卒業だろう。受験か」
「えー教えねー」
「なんでだよ」
 賢太郎が言うと清史郎はふい、と目をそらした。口を膨らませた姿は少し拗ねているようだ。
「手紙に書いたじゃん、それ以外のことなんて教えてやんねーもん」
「ああ悪い、忙しくて読んでない」
「もー!」
 読んだと嘘をつかなくていいくらいには、関係は良好である。以前ならば適当に言いくるめていただろう。それを彼に見抜かれさらに負の感情を増幅させることになったとしても、その場が凌げればそれでよかった。
「今日家にいたのもほんとたまたまだからな、ここんとこ会社に缶詰だった。嘘じゃない」
 清史郎の手紙は一部携帯メールに変貌したものの、やはり常より多いものだった。昔は端からそれを開封する意志もなく適当にまとめ、そのうち捨てていたが、今は違う。きちんと読むし、何通かに一通は返答もする。ただ、晩秋から本当に忙しかったのだ。12月は師匠も走る。
「俺年賀状も書いたのに」
「古風だな」
「兄ちゃん書いた?」
 書いてるわけがなかった。葉書に適当に書いて手渡してやれば満足するだろうか。
「みんなから届いたりしねえの」
「そういえば何枚かあったな。煉慈が手書きでえらく達筆だったのは覚えている」
「あんたそれに返したの」
「そんなわけがない」
「薄情ものー」
 清史郎はケラケラと笑った。なぜか機嫌は直ったようだ。
 ──まあ、兄弟で年を越すってのも悪くはないかもな。
 つられるようにして賢太郎も口元をほころばせた。


03


 久しぶりに人の増えた幽霊棟は容易にその空気を明るくさせた。ひとりではだらだらと進まなかったであろう掃除も、瞠がいることで気を抜かずに進み、思っていた以上に早く終えることができた。
 懐かしい、という言葉が幾度口をつきそうになったことだろう。そして幾度飲み込んだことだろう。──まだ二年だ。まだ二年しか経っていないというのに。
 この槙原の郷愁を瞠が感じ取ったらば、彼はまたすぐにここに顔を出すようになるだろう。槙原のことを思い、さらに自身の望みも重ねた上で。それはよくないことだ。過去を捨てろとは言わないけれど、過去に引きずられてしまうのは駄目だ。ひどく蠱惑的な誘いではあるけれど。
 それはそうと、仕事の方もなんとか目処がつき、さて12月31日。
 こんなにも余裕を持った年越しはいつぶりだろうな、と槙原は思った。今日の昼には新年の準備をする余裕すらあった。いつもは気づいたら日が回っていたというていなのに。
「そばいつ食べる? もう食べる?」
「早くない?」
 時刻は20時を回ったところだった。窓の外は当然暗く、白い雪がしんしんと静かに降っていた。明日の朝はもしかすると積もっているかもしれない。
「僕んとこだと夕飯として食べてたくらいなんだけど」
「えっなんかもうぎりぎりに食べるもんだと思ってた」
「……人それぞれなのかな?」
 というか家庭によって、という方が正しいだろうか。
「年が変わる前に食べ切らなきゃって話なんだから夕飯で食べるのってずるくない?」
 瞠の観点は少しずれてるような気もした。が、槙原も深夜の零時前に食べるってのは身体に良くないんじゃない? 程度しか返す言葉が思いつかなかったので黙っておくことにした。
「じゃあ今年は遅くに食べることにしよう。でも僕夕飯のつもりだったから他になにもないや。おなかすくよねえ」
「あー……俺お菓子ならちょっとある」
 瞠はやや歯切れ悪くそんなことを言った。目が泳いでいる。
「久保谷くん何か企んでる?」
「ええええええそんななにも疚しいことなんて考えてないよ!!?」
 あきらかに挙動不審だった。槙原がじっと見ると、頬を朱に染め、ふいと目線を床に落とす。彼はしれっと嘘をつけるはずだが、不意にこんなに分かりやすい態度をとる。
(でもまあ)
 こういう時は悪いことを考えているわけじゃない。深く追及しない方がいいだろう。
「雪降ってなかったら買い物行くっていう手もあるんだけどねー」
 瞠から視線をはずし、窓の方を見やってそう言うと、あからさまにほっとしたように「だね」と追従する声が聞こえた。
「積もるかな」
「どうかな、このペースだと積もる前に溶けるかも。わかんないね」
 学院と教員寮のあるこの地は結構な山間であり、関東とはいえ積雪はそう珍しいことではない。しかし二月ならいざしらず、この時期に降るものは積もらずに終わることも多かった。
「積もらないかなー」
「僕はやだな……」
「えーなんで。マッキー雪嫌い?」
「ていうか雪すかしがめんどくさい」
「理由がおじさんっぽい……」
「年始から一人っきりで雪かきしてる図を想像すると虚しさしか覚えないなって」
 瞠はそれを想像したのか口元を押さえくつくつと笑いを噛み殺した。どうせなら堂々と笑われた方がまだダメージが少なかった。
「マッキー雪かき似合うと思うよ……?」
 フォローになってないし。


 インターホンが鳴ったのはそれからさらに夜が深まった頃だった。そう、年を跨ぐのにあと30分も残っていないくらい。
 先日の瞠の来訪から続いて二度目。よもや、と槙原は思った。瞠の顔を見る。彼は素知らぬ振り。
「久保谷くん、もしかして……」
「幽霊だったりして」
「もう、それはいいから」
 瞠の軽口に少し決まり悪く返して立ち上がると、玄関へと向かう。ぽーん、ぽん、ぽーん。なんかリズムになってる。
「はいはい、今あけますよっと」
 槙原の予想が正しければこの扉の向こうは。
「先生、久しぶり」
「寒いんだよ、早くあけろよ」
 淡々と挨拶をする小柄の少年と、悪態をつく少年。和泉咲と辻村煉慈だ。そう、それはもしかして、と思ったメンバーの内の二人だった。
「こんばんは、和泉君、辻村君。びっくりしちゃった」
「全然驚いてなさそうな顔で言われてもな」
「ね」
 残念ながら槙原の驚愕は伝わらなかったようだ。結構驚いたのに。
 咲の頭にうっすらと積もった雪を払ってやり、二人を中へと入れる。室内灯の下、煉慈の鼻のてっぺんがほんのり赤くなっていた。
「久保谷君という前例があるからね。なんにもなくて二人が現れたんだったら幽霊かと思ったよきっと」
「久保谷の存在が仇となったか」
「瞠も僕らとくればよかったのに。ひとりだけ先に先生に会いに来てずるい」
 そんな他愛もない話をしつつ食堂へ戻ると、瞠が全員分のコーヒーをいれて待ながら待っていた。人数分ぴったりとは、まったく準備がいいというか、もしかしなくてもやっぱり君たち示し合わせていたね?
「お帰んなさい」
「はい、ただいま」
「結構雪降ってるみたいね。レンレン肩のとこ白い」
 瞠が該当箇所に指をさすと煉慈は苦い顔をした。人を指差すなということらしい。ついで雪を払おうとしたところで槙原は慌てた。玄関先ならともかく食堂でそれは床が濡れる──と、よいタイミングですっと横からタオルが差し出された。
「久保谷くん用意いいね」
「リネン係の本領発揮だ」
「そんなんじゃねえけど」
 そういえば瞠はこの幽霊棟に住んでいた時、リネンの洗濯を請け負っていたのだ。休日になると、いつまでも起きてこない白峰春人のシーツをどう奪取したものか作戦を練ってる姿が見られたされたっけ。懐かしい。
「ココアがよかった」
「贅沢言うなチビ。台所になかったんだよ」
 一応探してみたらしい。生憎と槙原が一人で住むようになってからは常備してある飲み物の種類は減っていた。ただし酒類は除く。
「久保谷、サンキュ」
 ココアを飲んでる咲の傍らで、コートを脱いだ煉慈は濡れた部分を拭き終えると、口端を少し持ち上げてそう言った。
「おまえも脱げよ」
「やだ、寒い」
 ジャケットに埋もれて大げさに肩を震わせる咲から、煉慈は強引にそれをひっぺがし、それも軽く拭いてからハンガーにかけた。咲は不満そうだ。
「あータオルこっち寄越して、あとで一緒に洗濯場持ってくからー」
「おお、悪いな」
 ようやく一息ついたように煉慈が椅子に腰を下ろすと、咲が彼をじっと見つめた。
「なんだよ」
「寒いからあっためて」
「誤解を招きそうな目で言うのはやめろ」
 そのやりとりはひどく懐かしい感じがする。パッと見、体躯の大きい煉慈の方が強そうに見えるのだが、この二人の関係においてはそれはまったくの逆だった。槙原は瞠と顔を見合わせてお互い眉根をさげるようにして笑う。
「あ、なんか内緒話してる」
「してないよー。二人がかわいいねって言ってたの」
「聞いた? 煉慈かわいいって。よかったね」
「聞こえているし、なにがよかったのかもわからねえよ……」
 なおも咲は「賛辞は素直に受け取った方がいいよ」と言ったが煉慈はそれを無視した。咲はそれ以上からかうのを諦めたようでマグカップを両手で持ってコーヒーを飲み干す。こういうところは二人とも少しだけ変わったかもしれない。以前の咲ならば無視されたらもっと露骨に機嫌を損ねただろうし、煉慈は受け流すことをしなかったに違いない。
「それで、三人は共謀していたのかな」
「共謀って人聞き悪いなぁマッキー」
「そうだよ、僕らはただ先生に会いに来ただけ」
 瞠は苦笑するように、咲はストレートに。煉慈は槙原の向かいの席で頬杖をついてそっぽを向いていた。口元はへの字だ。
「二人とも実家には帰らなかったの?」
「一応帰ったけど、まあ暇だしな」
「年末年始に眞と過ごせっての? 絶対やだ」
「……」
 ひやりとした。昨年、彼らがまだ高校生だった頃の5月を思い出す。連休にこどもたちは実家に帰るのを拒み、槙原に外出をねだった。彼らが自分に懐いてくれるのは嬉しい。が、嬉しい反面自分を一番にしてしまうのはいけないと思っていた。あれから時は過ぎ、徐々に正常な──依存ではない──距離をはかれるようになった。なっていたと思う。だが、こうやって卒業した今、都心からわざわざ山奥までかつての担任に会いに来るのは──それも年末──果たして正常な距離だろうか? 難しい。
「まあ、さっちゃんは仕方ないかなそれ……」
「そもそも温泉旅行とか言ってた気がする。大雪で渋滞すればいいのに」
「ご愁傷様……。レンレンはいいの、家族で過ごしたがったんじゃないの二人とも」
「つってもどうせ一人足りないしな」
「あー」
「誠二帰らないの」
「親父が何度か電話いれてたけどのらりくらりだな」
「三日前行ったら牧師舎籠城してたぜ」
 瞠の言葉に咲が目を細め、煉慈は溜息をついた。
「あいついないと叔父貴の矛先が俺一人になるんだよ……」
「吾朗さん正月から原稿取り立てくんの」
「クローゼットの中までな。神波がいてくれたら会話が分散されて助かるんだが」
 煉慈は心底疲れたように言った。よく見ると目の下にうっすらクマが浮いている。ちょうど執筆の時期だったのかもしれない。神波誠二も自分も顔を出さなければ夫婦水入らずのところに吾朗もやってこないだろうし、それはそれで場が収まるからいいのだと。その言葉は淡い痛みを伴っていた。彼が父親の後妻に恋心を抱いていたのはそう遠い過去ではない。
「まったくもう君たちって子は……」
「今更帰れなんて言わないよね? 瞠はいいのに僕らがだめなんて言ったら」
「おまえの教師人生が終わることになるぜ」
「なんだかその台詞懐かしいな」
 脅しにならない脅しに槙原はくすくすと笑う。そう、赴任当初は彼らに相当邪険にされたもんだ。
「ちゃんとおうちに連絡してあるならいいよ」
「大丈夫、言ってからでてきた」
 咲の言葉に煉慈も頷く。どうやら予想の範疇だったようだ。
「花が」
「うん?」
「先生のところならいいって」
「あはは、光栄だね」
 咲の姉である花とは、咲の身の振り方や進路などについて話をする機会が幾度もあった。それ以外にも──まあ、色々。
「とか言ってるうちにもう日が変わる……あっおそば」
「あっ」
「もう無理だろ……」
「諦めるには早いよ!」
「僕らはもう食べた」
「ずるい! 裏切り者!」
 ゆでる用意はもう整ってるのだ、あとは本当に時間との勝負だった。


──0:00
「あけましておめでとう」
「食べきった? これは食べきったことになる?」
「いけたと、思う」
「なぁせめて新年の挨拶しろよ先に……」
 槙原と瞠が詰め込むようにそばをすする姿を見て煉慈と咲はあきれ半分だった。仕方ないじゃない、こんなことになるなんて思っていなかったんだから。
「あけましておめでとう!」
「今年もよろしくおねがいします!」
「口に汁ついてるぞ槙原」
「えっ嘘」
「決まらねえなあマッキー」
「久保谷くんもぎりぎりだったじゃん」
 こんなぐだぐだの年越しでいいんだろうか、と少しばかり思ったけれど、一人きりでテレビでも眺めて過ごすよりよっぽどいいかとも思った。ついでにしつこいけど、夕飯の時にそばを食べておけばよかったと思った。
「ところで食べ終わったところで悪いんだけど」
「うん?」
「鍋しよう」
「この時間から!?」
「目の前でそばのつゆの匂いをかがされた気持ちが先生にわかるの」
 咲が言って視線をやると、煉慈が無言でどさっとリュックをテーブルの上においた。ジッパーをあけると覗くスーパーの袋。なにその息のあった感じ。コントか何かなの。
「なんか荷物多いなと思ったら」
「食材買ってきた」
「言ってくれたら先に冷蔵庫にいれておいたのに……」
 なんか自分でも論点がずれてる気がしないでもなかったが、まあいい。室内は暖房がきいてるとはいえ、やや肌寒いくらいだから悪くはなっていないだろう。
「そんでさ、朝になったら初詣いこうよ」
「まさか寝ないつもり……?」
 瞠が身を乗り出して言うのに対し、槙原が懐疑的に投げると、三人はきょとんとした。
「年始から寝ちゃうのマッキー……?」
「僕らがいるのに寝正月だなんて、いい度胸だね」
「情けねえなあ……」
「えっ」
 今、歳の差を痛感した。そりゃあものすごく。てきめんに。
 槙原とて体力はそれなりにある方だが、できれば寝たい。徹夜は身体に響く年齢だ。もう若くない。
「今夜は寝かさないよ」
 先があやしく笑うとなんだか違った風に聞こえて困る。
 どうやら、覚悟を決めるしかないようだった。


04


 家に仕事を持ち帰ることが困難になった。
 かといって職場に泊まり込んで仕上げるという選択肢をとることもできなかった。
 理由はひとつ、転がり込んできた弟の存在のせいだ。
 賢太郎が家にいれば構えアピールがひしひしと後頭部に突き刺さり、いなければそれが部屋そのものに向くだけだ。結果──奇跡的なことに──賢太郎は人間としてまっとうな時間にまっとうに仕事を終えて、まっとうに帰路につくという生活を手に入れていた。人間やればなんとかなるものだ。
 しかし予想以上に多くの休暇を手に入れたにしては気乗りしなかった。仕事に割いていた意識を解放するのではなく、そのまま清史郎へとスライドさせるだけだったからだ。
(ようは子守だ)
 子守というには清史郎は手の掛かるような年齢でもないのだが、賢太郎にはそれが念頭にあった。片手間であしらう術は学生の時に身につけていたが、それが元でしっぺ返しを食らったのは記憶に新しい。十に十を返す必要はないけれど、大事な箇所を見逃してはならない。バランスの問題だ。
「……なんだそれは」
「そば」
「まだ昼だろ年越しには早い」
「夜忘れるよりいいんじゃね?」
 時刻は昼の二時を回ったところか。賢太郎は寝起きだった。昨晩床についたのが法外に遅い時間だったわけではないのだが、なんだかんだ年末進行の疲れが溜まっていたらしい。寝すぎて若干腰と頭が痛かったが。いやそれはいい。それよりも蕎麦だ。寝起きの賢太郎、こたつの天板に乗った蕎麦が二つ。湯気があがってる。
「早く食べねーと伸びる……」
「なんでせめて俺が起きてから準備しないんだおまえは」
「そんなん兄ちゃん起こすより、こうやって早く食べなきゃって状態にした方が兄ちゃん確実に起きるじゃん」
 なにかが根本的に間違っている。
 賢太郎はうまく働かない頭を振って、覚醒を促そうとした。とりあえず寝台から這い出て、清史郎とはす向かいの位置に腰を下ろす。おきがけに蕎麦。賢太郎はあんまり時節の慣例を重視する方ではないけれど(むしろどうだっていいと思っている方だけれど)さすがに年越しそばをこの状態で食べるのはいかがなものか……。
「はい、箸」
「ん、」
 そこで気づいたならよかったのだけれど、残念ながら寝ぼけた頭ではそこまで回らなかった。清史郎から箸を受け取り、どんぶりから直につゆをすすり、ひとくち食べて。
「……おまえこれなにいれた?」
 口の中に激痛が走った。いや、唇にの方が正しい。
「えー別になにもいれてねえよ。ただ箸に七味まぶしただけで」
 よく見ると箸を渡した際に落ちたのであろう唐辛子の粉が天板にぱらぱらと。
「かける手間が省けるかと思って」
「自分でやるから、な? 薬味のたぐいはな?」
 それにしたって普通箸に七味唐辛子はまぶさないだろう。まだつゆ一面が真っ赤になっていた方がネタとしてもわかりやすい。
「なあなあ目ぇさめた?」
「おかげさまでな」
 箸をつゆでゆすぎ(行儀が悪いのは承知だ)、それを喉に流し込む。ぴりっとしたけれどどうということはない。いたずらとしては害のない方だ。賢太郎が平然と食べ始めると清史郎もそれにおとなしく倣った。どうやらもうこれ以上のレスポンスは期待していないらしい。そばは、まあそこそこ美味だった。
「で、兄ちゃん掃除しねーの」
 腹が満たされたところで清史郎は言った。
 部屋の状況は先日彼が押し掛けてきたときからあまり変わっていない。むしろ一人増えたことで出るゴミの量が増えてますます雑然としたような気がする。
「まあそのうち」
「12月31日の昼間に『そのうち』なんて言ってたら一生やんねーだろ。あーもー兄ちゃんはだめだなー」
 やたら肩を落としがっくりした風に清史郎は言う。自分も掃除は得手としていないくせに。
「暦に踊らされて物事を進めるのは性にあわないんだ」
「えっそれなんかカッコイイ」
 あっさり手のひらを返すし。
「でもさーじゃあいつ片づけンの」
「人を招く時とかかな」
「俺は!?」
「押し掛けてきたものは招くとは言わない」
 でもこの様子だと兄ちゃんの家、ほとんど人きてなかったんだね、と部屋をぐるりと見回しながら清史郎は言った。
 やめろそういうことを言うのは。


「おい清史郎なぜか冷蔵庫のビールがすべてコーラになってるんだが」
「年末年始は素面で過ごせってお告げなんじゃない」
 結局おざなりに掃除を──片づけをして、気づけば夜更けもいいところ。ひと段落したことだし、と冷蔵庫を開けたらば前述の通り。
 賢太郎は特に酒に執着するようなたちではなかったが(どちらかといえば煙草の方に依存気味だ)、アルコールの数本は家に常備している。滅多にしない家事労働を終えたのだから一缶あけようと思ったのだけれど。
「どこの神のお告げだよ」
 おそらく御影清史郎教の神のお告げだった。くだらない、と思ったが、一方でそれが実現したら結構な数の信徒が集まりそうだとも思った。薄ら寒い気持ちを抱く。弟のカリスマ性が時々怖い。
「なー清史郎、ビール」
「兄ちゃんあれ第三のビールなのにかたくなにビールって言い続けるんだね……」
「うるさいほっとけ」
「でもさあ、実際のとこ、今から飲まない方がいいとおもうけど」
「はあ? なんでだよ」
「なんででも! あと酔っぱらった兄ちゃんより素面の兄ちゃんのがかっこいいし。都合悪いしいろいろ」
 最後にちらりと本音が覗いた。というか全体的に言い訳になっているようでなっていなかった。都合ってなんだ? またよからぬことを企んで──いやいや、まさか、そんな。信じよう。こどもたちを信じよう。清史郎の表情を窺う。にかっとわらったその様は屈託がない。
(なんか企んでる)
 やっぱりその疑念は拭えなかった。信じると言ったってそりゃあもっと根本的な部分のことだ──。 
──ぽーん
「あ」
 インターホンが鳴ったと同時に清史郎が声をあげてこたつから抜け出した。冷蔵庫の前で立ち尽くす賢太郎を押し退け玄関へ。ここの家主は俺のはずなんだが。
「こんばんは……うわ、すごい惨状」
「お邪魔します、これは……ちょっと」
 賢太郎の了承を得る前に家に招き入れられた客人は、二人して顔をしかめ、遠慮のない言葉を口にした。いったいどういうことだ。
「よう」
「久しぶり賢太郎。大掃除した?」
「ご無沙汰しています津久居さん。これつまらないものですが」
 賢太郎が冷蔵庫にもたれたまま片手をあげて挨拶すると、二人は口々にそんなことを言った。
 白峰春人と茅晃弘。
 ともに縁の深いこどもたちだった。清史郎と同い年で彼らは今大学に進学を果たしているはずだった。まあ、清史郎はそれに倣わず高校3年生を一年遅くやっているわけだが。
「掃除は清史郎がきたせいで年始にずれこんだ」
 晃弘から百貨店の紙袋を受け取り、春人にそう返すと、春人は「だめだこの人……」と首を横に振った。
「そうか、清史郎なら仕方ないか」
 一方晃弘はなぜか納得したようだった。清史郎は肯定も否定もしなかった。
「狭くて汚いところだけど二人ともあがってなー」
「待て清史郎、なんでおまえが仕切ってるんだ?」
 いいからいいから、と賢太郎の横を通って三人はするりとこたつにおさまった。賢太郎は、どうしたものかと、とりあえず土産を脇の棚におき、ビールから変化したコーラを出して、彼らの前においてやる。
「おかまいなく……っていうかなんでコーラ?」
「清史郎に聞いてくれ」
 単身者の家にある小さいこたつに三人がひしめいてる状態で、もう一角に足を滑り込ませる気にはならず、賢太郎はベッドに腰をおろした。仕方ないので自分もコーラだ。
「それで?」
「……それで、と言われましても」
 晃弘が眼鏡をくいとあげる。それは嫌味になるくらい様になる行為だった。困惑した調子でこちらを見上げてくるが、どちらかと言うと事態がわからないのはこちらの方だ。
「誰が首謀者で、何を企んでいて、これからどうするんだ」
「ああ、ずいぶんと明快になった」
 賢太郎以外の三人は内緒話をするようにお互いの顔を見て笑いあう。賢太郎は憮然とした。除け者にされるのは好きではない。
「首謀者──はこれといって特に。誰が言い出したのか、僕は覚えていないな。白峰、覚えてる?」
「いや、なんとなく集まりたいねって話だったしね。企んで──なんて、やだな、人聞きが悪い。俺たちは冬休みを利用してあなたに会いにきただけだよ」
「これからどうする、なんて簡単だ。ほら、」
 清史郎が目を細めると、ちょうど遠くで鐘が鳴った。除夜の鐘だ。もうそんな時間だったのか。
「新年あけましておめでとうございます」
 とたんに仰々しくそんなことを言って、
「初詣に、行くんだよ!」
 満面の笑みを浮かべた。


「なんでこの寒い中好き好んで人混みの中なんて……」
 賢太郎のつぶやきは白い吐息となって風にとけた。己の意志は確認されることなく、押し掛けてきたこどもたちは即座にでかける準備を整え、賢太郎にもそれを強要した。初詣は非常に結構なことだが、賢太郎を巻き込む必要はどこにもなく、三人で行けばいいと説いたのだがついぞ聞き入れられてはもらえなかった。
「いいからいいから」
「そのためのコーラじゃん」
「飲酒運転厳禁ですよ」
「おまえらな……」
 押し切られてアパートの部屋をでる。子守だ。再び賢太郎は思った。しかも見るべき相手が三人に増えた。おかしい。こどもとはいえ18を過ぎた少年たちだ。普通は、もっと、大人の手の介入しないところへ行きたがるものじゃないだろうか……? いや、一般論を語っても仕方あるまい。賢太郎は彼らとイッパンテキな関わりを持ったわけではないのだから。
「せめて朝になってからにしようぜ」
「往生際が悪いですよ津久居さん」
 駐車場までのんびりと歩くさなか、煙草を一本くわえてぼやくと即座に晃弘から突っ込みが返ってきた。
「晃弘、おまえも免許持ってるだろう」
「持ってますけど、この暗い中に長距離はちょっと冒険だな」
 それに山の方は雪も積もってるかもしれないし。その言葉に賢太郎は足を止める。待てよ山だと? どこまで行くつもりだ。
「近所にも確か神社はあるだろう」
 そりゃあ車を出せというからには徒歩五分とはいくまいが、それにしたってここらで有名な神社はそう遠くない。あと山というほどではない。
「だめだよ、賢太郎。俺たちが三人だけで満足すると思ってるの」
 春人が賢太郎を見て笑った。トラッドなコートにマフラーをあわせた姿は、どうにも雰囲気がある。少し伸びて色を抜いた髪が街灯の下でいい具合にそれを後押ししていた。
「あいつらもいるっていうのか」
「さあね」
「あっ春人バラしちゃだめじゃんー」
 春人と賢太郎の間に割って入ってきた清史郎は口をとがらせた。
「兄ちゃんには秘密にしておきたかったのに」
「あははごめん。でも隠し続けるのも難しいかなって」
「そもそも隠したままつれていくなら、ここで昏倒させて運ぶくらいのことをしないと」
「あーなんかそれ兄ちゃん閉じこめた時みたいなー」
 のんきな声で言うけれど、サプライズのために犯罪紛いの手順で連れ去られてはたまったもんじゃない。いや、こいつらなら紛いじゃない、本物の犯罪になりかねない。なにせ前科がある。
「懐かしいな」
 そして郷愁を感じられても困る。
「もう、やめてよ物騒だよ」
 この中でまともな感性を持ち合わせているのはどうやら春人だけだった。
「そんなことになったら誰が運転するの」
 いや、そうでもなかった。
「だなー。晃弘の運転だとちょっと怖いなー? 俺催眠術覚えてくればよかった。兄ちゃんに運転させて、現地で暗示かけて忘れさすの。誰か教えてくんないかな」
「やめろ、諦めろ」
 この調子だと、機会があれば本当に会得しかねない。賢太郎は必死で催眠術のリスクを説いた。これ以上スキルを身につけさせたら大変なことになる。脳内のインデックスを引き知りうる限りのことをやや大げさに膨らませて言い含めると清史郎はようやく諦めたようだった。世界は救われた。
「俺、助手席がいい」
 そうこうしてるうちに駐車場についた。誰の意見もきかず、清史郎は宣言して車に乗り込む。春人と晃弘を見ると二人は肩をすくめるだけだった。
「──ナビできるんだろうな」
「ついてないの?」
「おまえら具体的な地名も言わないくせにどうやって機械に入力すればいいんだよ」
「僕が覚えてます」
「ナビが後部座席に座ってどうする。清史郎交代しろ」
「えー! 俺も覚えてる!」
 清史郎はそうまくしたてたが、どうにも信用がならなかった。


05


 東の空がまだ白む前、一行はばたばたと教員寮を出た。まだ夜明け前で気温が低いせいか、地面はうっすらと雪化粧をまとい、粉砂糖のようだった。
 ふわあ、と大きなあくびをひとつ。
「マッキー眠そう」
「当たり前じゃない……僕もうそんなに若くなんだからね……」
 我ながら恨みがましい口調だった。しかし、くすくす笑いながらごめんね、なんて言われたらそれ以上責められない。
「こんなに慌てて出てこなくてもよかったんじゃない」
 食堂にはまだ鍋の残骸が鎮座しているはずだ。日が変わってから準備された遅い晩餐は本当にだらだらと今の今まで続き、二十歳前の学生のバイタリティをこれでもかと見せつけられることになった。みんなよく食べたなあ……。
「何言ってるの先生、これ以上遅いと混むよ」
 咲は携帯を片手に操作しながら言った。確かに日付の変わる時間と、それからもう少し遅い時間の方が混むのだろう。いや、でもさ、元旦ってだいたいひっきりなしに混んでるんじゃないだろうか?
「そんなに違いがあるとは思えない先生は今激しく睡眠を所望しています……」
「情けねえなあ、一晩の徹夜でこのていたらくかよ」
「そういう辻村くんもクマが」
「これはこないだの締め切りの追い込みの分」
「えー」
 さくさくと雪を踏みながら、丘を下る。この辺りはどちらかといえば教会の勢力圏なため、近場に神社がない。あまりそういう意識はないが、この学校だって少なからずミッション系なわけだし。
「……って久保谷くんとかどうなの? ばりばりクリスチャンじゃないの? 初詣ってどうなの」
「あー、まあそれはそれ」
「あれだ、八百万の神は受け入れてくれるんじゃないか、キリストの一人や二人」
「なんか腑に落ちない……」
 一神教と多神教を同列で語ってはいけないような気がするが、槙原も宗教に造詣が深くないのでとりあえずその話はやめた。自分だって、家はおそらく仏教徒なんだろうが、クリスマスは祝うんだし。
「雪、もっと積もればよかったのに」
「なー。これ日が出たら溶けちゃうな」
「かまくら作りたい」
「それは本当の大雪の時じゃなきゃむりだろ」
 咲と瞠が並んでそんな会話を交わす。その様子がなんだか兄弟のようでほほえましかった。
「辻村くん、締め切り終わったってことはひと段落したとこなんだ?」
「……いや実はもう一本ある」
「最近すっかり売れっ子になって。あっ僕最近出たやつ買ったよ、サインちょうだい」
「おまえなあ……」
 煉慈はあきれたように言ったけど、下げた眉はそんなに嫌そうでもなかった。
「あの本出たの半年前だけどな」
「社会人になると半年くらいは余裕で最近の範囲だよ」
「なんか大人ってやだな……」
「あはははははは!」


 二度目のインターに入り、車を降りて煙草を吸う。車内では煙草臭いだのなんだの言われてこどもたちが吸わせてくれないからだ。春人は喫煙者だから2対2で勢力としては拮抗しているはずなのだが、車に乗って早々に寝てしまった。
「寒いな……」
 年末年始といえば帰省ラッシュだが、さすがに元旦の高速道路利用者はそう多くなかった。まだ夜明け前だしな。今頃混んでいるのは初詣参拝への道だろう。
(いや、俺たちも初詣に向かっているわけだが)
 生憎と、神社の近く、通行量が増えるところにすらさしかかっていない。快適なもんだ。
「なー兄ちゃんあれ買って」
「我慢しろ」
「ケチー」
 晃弘が紙コップのコーヒーを片手にしている横で、ホットスナックの自販機をばんばん叩きながら清史郎はぶーたれた。神社についたらついたでこいつは片っ端から露店の食べ物をねだるのが目に見えている。
「どうぞ津久居さん」
「ん? 悪いな」
 どうやらコーヒーは賢太郎のために買ったらしい。「あなた一人に運転を任せてるわけですから……」と晃弘は殊勝だ。賢太郎はなんとなく彼の頭をぐりぐりと撫でた。なんですか、といいながらも彼は嫌そうではなかった。背の高さとやや寡黙気味なことから大人びて見えるが、晃弘は案外と弟気質だ。
「なー春人起こさなくてよかったんかな」
「一旦寝たら起きないからな、白峰は」
 車に置いてきた少年のことを話題にしながら、晃弘はホットスナックの自販機の前でうーん、と顎に手をあてた。
「晃弘なんか買うのー」
「清史郎はどれがほしかったんだ?」
「えっ買ってくれンの!」
「晃弘、こいつをあんまり甘やかすな……!」
「兄ちゃんだってコーヒーもらったんじゃん!」
「おまえは運転してないだろうが」
 これみよがしにコーヒーをすすると清史郎が恨みがましい目で見上げてきた。
「今食ったら、あとで出店前にして腹いっぱいになんぞ」
「じゃあついたら買ってくれんの!」
「予算以内ならな」
 そういうと清史郎はあっと言う間に機嫌をなおした。随分と安い気もしないではないがおまえそれでいいのか。


「わー結構人いるね」
 曙光が差し込みはじめ、視界が少しずつ紫がかったものになった頃、くだんの神社についた。特に著名な場所でもないので、人がひしめき合うというほどではなかった。けれど、それでもここらでは定番なのだろう、ちらほらと出店が連なり、親子連れやカップルの姿がそここに見られた。
「こりゃ、合流するのは難しいかな」
「久保谷くん、誰かと約束してるの?」
「あっえっ、いや、ほらさっちゃんとかふらふらしてっから一回はぐれたら大変だなって……言ってるそばからあーさっちゃん!」
 勝手に歩きだした咲の肩を瞠がつかんで止める。咲は「あっちからいい匂いがした」と悪びれる様子もない。瞠は顔をあげ槙原を見るとへらりと笑った。なるほど、確かに。
「もーお参りのあとな? そういうの」
「瞠のケチ」
「食いながら参拝する気だったのかよ……」
「でもこうやって並んでると、全部おいしそうに見えて目移りしちゃうよね。僕はおなかがすいてないけど……」
 胃の中にはいまだに先ほどの鍋が残っている。瞠と煉慈も顔を見合わせて「そういや……」「今はそんなに……」と腹をさすった。どうやら空腹なのは咲だけのようだった。そういえば彼は幽霊棟にいる時も人一倍食べていた。当時、その小柄な身体のどこに詰め込んでいるのだろうと思ったものだ。
「あれっ和泉くん、背、伸びた?」
「先生、今頃、遅いよ」
 過去に思いを馳せたところで、槙原の知る和泉咲の身長のデータが変化していることにようやく気づいた。煉慈や瞠も少し伸びている。相対的に咲が一番小さいことは現況変わらないため、どうも見逃していたらしい。
「成長期だからね」
 咲は自慢げに言った。後ろで煉慈が何かしら言おうと口を開きかけたのを瞠が押さえる。(レンレンだまって!)(なんでだよ!)(さっちゃんの希望を砕かないで!)小声だけど聞こえている。
「二人ともいつか抜くから、覚えててよ」
 先生もね、と付け加えて、猫のように笑った彼は。
 ああ、紛れもなく和泉咲だなあ、なんて思った。


「これ、起きるのか?」
「参ったな、着く頃には目が覚める計算だったんだけど」
「鼻つまんでも無理なんだよな春人の場合」
 ようやく目的地についたものの春人は後部座席ですやすやと寝こけていた。眠っている春人の対処は晃弘の分野だったが、それは常日頃の<夜に寝て><朝に起きる>場合であり、まだほんのり空があかるくなってきた、といった時間帯の話ではない。かつて聖母を演じさせられた少年はそりゃあもう天使のような寝顔を披露していた。聖母なのに天使では何かが違う気がしたがまあいい。
 しかしいつまでも駐車場でたむろしていても仕方がない。晃弘が春人の脇に手を差し入れ無理矢理車から降ろす。気を抜くと膝からかくんといきそうだ。
「どうしよう津久居さん、これ、離したら多分地面に落ちます」
「春人、軟体動物みてーだな」
「寝起きの白峰はぐにゃぐにゃなんだ」
 現在のところ、その寝起きの状態にすら持っていけていない。マイナスからのスタートだ。
「あー……仕方ないな、かつぐか」
 とりあえず連れていくよりほかあるまい。賢太郎がしゃがみ、晃弘と清史郎が手伝って、何とか春人をおんぶした。寝ている男子大学生は意外と重たい。
「そのうち寒くて目が覚めるだろ、これも」
「大丈夫ですか津久居さん、僕が変わりましょうか」
「いや、なんとかなる」
 実は結構変わってほしかったが、思わず見栄を張った。それに、まだ辺りは暗いし、足下は雪が溶けたのか少しぬかるんでいる。視力の悪い晃弘に任せるのには不安が少し残った。本人は気にするだろうから口にはしなかったが。
「そんなに混んでないのが救いだな」
 参拝客はそれなりにいたが、人ゴミというほどではない。駐車場にもまだ余裕があった。賢太郎はぐるりを見回す。
「何か探してるんですか」
「いや、てっきり瞠たちがいるんじゃないかと」
「もー! そういうのつまんねえ!」
 春人がバラしたせいだ、と清史郎はぶつくさ言った。しかしこの三人が揃っている時点で、あいつら──幽霊棟の残りの三人を──思い出すのは必然だし、ここまでの道のりは賢太郎の記憶の中であの一連の事件と深く結びついている。春人がばらすばらさない以前にどうあがいても魂胆が見えるようなものだった。のだが。
「いないな……」
 神社についた時点で彼らが顔を出すものと思っていたのだが、そうではないようだ。となるとどこかに隠れているのだろうか? しかしこの暗がりで人の出入りが多いとなるとそれも難しい話に違いない。
「さっさと出てくるように言えよあいつらに。いるんだろう?」
 晃弘と清史郎は二人とも困ったような顔をした。
「具体的にどことは決めてないんです、先についた方が連絡するって話だったんですけど」
「電波入らなくて、ほら」
 清史郎は携帯電話を見せてきた。圏外、の文字が浮かぶ。
 ──────頭が痛くなった。


 こどもたちの挙動が不審になった。
「圏外だ」
 咲が、憮然と言って携帯電話を閉じた。それに追従して瞠と煉慈も己の携帯を確かめる。そしてお互い、深刻そうに視線を交わした。
「あー俺も」
「俺もだ……」
 一緒になって槙原も自分の携帯電話を見たが、同じように圏外だった。が、そんなに問題だとも思わなかった。あけおめメールは日付が変わった頃にあらかた来ていたし、この時間から連絡をとる必要にかられることはない。まあ、誰かがはぐれたら不便に感じるだろうけど。
「とりあえず行くしかねえんじゃないか……?」
「だよね……? なんとかなるよね……?」
 煉慈と瞠はなおも不安げな表情だ。唯一平静な顔をしている咲を見やると彼は顔を横にふるふると振った。
「いいから、先生。行こう」
 咲は槙原の手をとると参道のほうへと歩きだした。
「あ、ちょ、待てよさっちゃん!」
「ここまで来て悩んでも仕方ない」
「?」
 彼らの会話の内容はわからなかったが、とりあえず止まっていても仕方ないのは確かなので、咲につんだって槙原は歩を進める。煉慈と瞠はしぶしぶといった風についてきた。ここまで来てクリスチャン的に罪悪感が芽生えでもしたのだろうか。
「先生は──」
「ん?」
 咲は大きな瞳で槙原を見上げてきて、けれどふいとそらして「やっぱりなんでもない」と言った。やっぱり咲もどこかおかしかった。
「なんだかよくわからないけど……とりあえずお参りをすませようよ。ここは寒いしね」
「先生は早く帰りたい? 寒い中僕らと来るの嫌だった?」
「そういうんじゃなくて、ほら風邪をひくといけないし」
 急にネガティブなことを言い出す咲に驚いてそう返すと、瞠と煉慈も同じようにうなだれていた。こどもたちはくるくると表情を変える。彼らは槙原の生徒であったときより随分と落ち着いて見えていたが、まだ容易に揺り動かされるものでもあったのだ。
「あのねマッキー、俺たち」
「久保谷、やめろ」
 瞠が何事か言おうとするのを煉慈が制する。それだけで空気はぴりりと張りつめたような気がした。小さく小さく息をつく。それは白い煙となって溶けた。
 そして、境内に入った時それは起こった。
「あれ」
「お」
 引き寄せられるように視線がいったのはなぜだったのだろう。広場の隅の方、四人組を視界に入れた瞬間、男もこちらを見た。
「……津久居くん!?」
「なんでおまえがここにいるんだ槙原」
「それはこっちの台詞だよ!」
 そこには、かつての天敵──現在も決して友好的とはいえない──因縁だけはやたらと深い津久居健太郎がいた。しかも連れ立っているのはかつての槙原の教え子たちだ。
「うわあ……新年から見たくない顔見た……」
「おまえな、第一声がそれかよ。こいつらの前でまあそうも人に嫌悪感を示せるよな」
「今年僕運勢悪いんじゃないの」
「どれだけ失礼なんだ」
 お互いに顔を歪めながら言い合う傍らで、こどもたちは「あけましておめでとう」「今年もよろしく」「すげえ久しぶり!」「ねえハルたん寝てるんだけど」「この状況下で寝られるって白峰って結構剛胆だよな……」和気藹々と話をしていた。
「先生も賢太郎も、新年の挨拶にそれはないんじゃない」
「そうだよ仲良くしなよー二人ともー」
 咲と清史郎がそんな風に言ったけれど、人間できることとできないことがある。
「あー……せっかく茅くんたちに会えたのに、それより先に津久居くんを構ってしまったとか僕だめだ……」
「落ち込むところはそこかよ」
 当然だった。晃弘と清史郎、それからまだ眠っている春人。みんな大事な生徒たちだ。清史郎は先日も授業で顔を見たけれど、あとの二人に会うのは本当に久しぶりだった。
「津久居さんは、この合流を視野にいれていたんじゃないのか」
「えっなにそっち賢太郎にバラしちゃったの」
「うちからこっちまで来る時点でおまえらが絡んでるのはばればれなんだよ。だが槙原までいるとは思ってもみなかった」
「……津久居くんの家ってここからだいぶ遠いよね」
「ああ、深夜にこいつらがやってきて拉致紛いにここまで運転させられたからな。三人だけならこんなところまで来るはずない」
 それは確かに疑問に思うことだろう。
「おまえはこいつらが揃ってないことに何も思わなかったのか」
「えーだって御影くんはこの間帰ったところだったし、白峰くんと茅くんはおうちで過ごしそうだなって。それに久保谷くんがきたのが28日とかで二人がきたのがさっきだったからなー二段階とは思わなかったよ」
 槙原がいうと賢太郎は勝ち誇ったように鼻を鳴らした。いちいち勘に障る男だ。
「……んん……うるさい……」
「白峰が動いた」
「春人の寝顔写メしていいかな」
「それどうする気だよさっちゃん」
「べつに。寝顔コレクションに加える。おすすめは煉慈」
「なんでしれっと俺が入ってんだよ……!」
「なー春人、神社ついたし起きようぜーお参りしようぜ」
 槙原は眉間の皺をといた。なんだか馬鹿らしくなったのだ。過去の遺恨はもうない。あるのは単なる相性の悪さだ。しかし年始からいがみあったところで何か建設的になるわけでもない。愛しい生徒たちに囲まれたこの状況で贅沢なことを言うのはどうだろう。ここはひとまず大人として目を瞑り、彼とにこやかに行動をともにするというのも──。
「本当に鈍感な奴だな……それでいまだに教師が務まってることに感心するよ、嫌味でなく」
 前言撤回、やっぱり無理。


 瞠と煉慈、咲がいるであろうことは確信に近いものを持っていたが、槙原がいるとは思っていなかった。よく考えれば、そこかしこに符丁はあったような気もするが、おそらく意図的に自分の脳内でシャットアウトしていたのだろう。得意な相手ではない。
 こどもが六人に大人が二人。端から見たどんな関係に見えるのだろうか──いたく変な取り合わせであることだけは間違いない。
「先生、引率したらどうなんだ」
「君の先生じゃないんですけど!」
 煙草に火をつけようとしたら横からひったくられた。
「ここは別に禁煙ではないはずだが」
「彼らに副流煙も吸わせたくないんで。ってか、人多いんだからそもそも控えろよ」
 確かに歩き煙草はよろしくないか。
「……寒い……」
 寝起きの春人がまだ目をとろんとさせたまま言った。いやしかしほんとよく眠るもんだ。
「あれ、槙原先生? 辻村たちもいる。いつ着いたの? てかなんで車じゃなくて突然境内なの?」
「ハルたん……」
 様子のわかっていない春人に瞠を筆頭に全員が哀れみのまなざしをやった。おそらく当人は気づいてないだろうが。
「起きそうになかったから津久居さんがここまでおぶってきたんだよ、白峰」
「えっ嘘! そっかーごめんね賢太郎。ぜんぜん気づかなかった……てか寒いねほんと……」
 春人が身を震わせると瞠と晃弘が一斉に慌てだしてマフラーあげようかだのカイロいる!? だのかいがいしく世話を焼きだした。まあそうしたくなる気持ちはわかる。
 賢太郎は自販機でコーヒーを一本買うと春人に投げた。
「飲め」
 春人はうん、とその缶を両手でつつむようにして飲み始める。後ろから「贔屓だ」と咲の拗ねる声がしたので頭を撫でておいた。逃げられた。
「嫌われてやんの」
 鼻で笑うのは瞠だ。
「それで、お参りしたの?」
 不機嫌さを隠す気もなく槙原はいう。本当にここまで好悪を顔に出して教職がつとまるのものなのだろうか。先ほどにたようなことを口にしたら青筋立てて「君以外にはもっとうまくやるよ」どうなんだか、疑わしいところだ。
「見たらわかるだろ、寝こけてたのが一匹いるからまだだ」
「そっか、じゃあ一緒にいこうか」
「なんでおまえは誘ってるくせにそんな嫌そうな顔をするんだ?」
「君がいなかったらもっと幸福そのものみたいな顔になってるんだけどね」
 口の減らないやつだ。
 こどもたちは六人集まってかしましく歩きだしてしまい、その後ろを槙原と二人歩く形となった。非常に不本意だ。お互い顔を背けたまま沈黙していて、全く元日の朝からなんだってこんな目にあっているのだろう──。
「……あの子たちと結構会ってるの?」
「いや、久しぶりに見たな。清史郎からは手紙が来ていたがあとのやつは卒業以来じゃないかな。会おうと思えば会える距離だが、頻繁に顔を合わせてはあいつらのためにならないだろう」
 春人や晃弘と出会った頃──あの寮の、あの部屋"ネヴァジスタ"で監禁されていた頃──彼らには真の意味で頼れる大人がいなかった。賢太郎と槙原はともにこどもたちに計られ、そして何度も失敗した。その果てに、ようやく彼らをその虚ろな淵から引き上げることに成功したのだ。二人は、彼らに深く介入し、そしてその分こちらも暴かれた。その距離は一体感を得るにはとても心地いいものではあるけれど、決して正しいものではない。
 だから、好意だけで易々と会ってはならなかった。世界の柱となってはいけないのだ。
「そっか、よかった。僕が会ってないのに君が会ってたらなんか悔しい」
「おまえな……」
 本当に軽口かと呆れかけたが、表情を見たらばそうではなかった。おそらく槙原も内心は賢太郎と似たようなものなのだ。
「それでもこの先も、こうやって少しでいいからあの子たちの人生を見守っていけたら、いいよね」
「おまえと一緒にってのは気に食わないが、まあそうだな」
「君ほんと一言多いよね。僕の生徒なのにさ。──ああそうだ、津久居くん」
「あ?」
「あけましておめでとう、まあ仕方ねーから今年もよろしくしてやっていいよ」
 まったく、かわいげのない挨拶だ。一言多いのはどっちの方だよ?
 賢太郎は笑って、おまえがどうしてもって言うなら仲良くしてやらんこともない、と返す。
 遠くで瞠が、こどもたちが二人を急かした。早く来い──だなんて、おまえらが歩くの早いんだよ。槙原の小言が耳に届く前に賢太郎は走り出した。不意にはじまった大人たちのレースにこどもたちが沸き上がる。お株を譲ってやる気など賢太郎にはさらさらなかった。

 ──幸せな日々はまだ続く。これからも、きっと、ずっと。



図書室のネヴァジスタ一周年おめでとうございます!
わたしがこのゲームに出会ったのは二月のことだったのですが、
プレイを始めたときはまさかこんなにも大好きで、
大切な作品になるとは思ってもみませんでした。
一周年というこの機に企画に参加させてもらえて
ほんとうに、ほんとうに幸せです。
ちっとも一周年な話にはならなかったけど。
\ネヴァジスタが大好きです/
\でも瞠くんはもーっと好きです!/


◆ トオル
◆ @to_ru_sc
http://red.fool.jp/ao/


Copyright 2011 図書室のネヴァジスタ一周年記念 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system