――あ。
 と。
 思わず声をあげたが自動販売機がそんなもの気に留めてくれるはずがなく。ガランと音を立てた取り出し口を見て、彼は途方に暮れた。覗けばそこには毒々しいほどの黄色をした、一本の缶。
 ぼんやりする頭をすっきりさせようと思った結果がこれだ。昨夜は夜が明けるまで飲んでいた。槙原はザルだったから二日酔いなどは全くなかったが、徹夜したというそのこと自体がダメージとなった。
 もう若くないってことかと落ち込みつつ、若すぎるセンスのスカーフを風に靡かせながら、彼は冷たい缶を握りしめる。さてどうしたものか。

「あーあ」
「どうしたの?」

 休日は教師も生徒も思い思いに過ごしている。
 そういえば白峰は買い出しに行くとか言っていたなあと思い起こす。彼の両腕に抱えられた荷物は相当な量だったが大丈夫なのだろうかと心配になる。だがその心配をしてはきっと怒らせるのだろう――さすがに最近少しだけ学習した槙原は、間違えて買ってしまったコーヒーを掲げた。

「間違えて砂糖入りの買っちゃって。しかも冷たい」
「先生無糖派? ああ、これ。すごい甘いやつだよ」
「そうなんだ。……沼にでも置いてこようかな」
「なんで沼なの? それ、不法投棄って言うよ」
「ううん、お供え。古川君によく飲んでもらってたんだ。砂糖入り缶コーヒー」

 暖かく懐かしい記憶を呼び起こすかのような槙原の表情とは対照的に、白峰は複雑な顔をした。色々と言いたいことはあったが、とりあえず結局は不法投棄だ。

「もったいないよ先生。俺が貰ってあげる」
「あ、本当? 助かる」

 二十代後半だなんて嘘に見える笑顔と共に缶を押しつけ、もう一度自動販売機に向かう槙原。「あっ」と明らかにやっちゃった感の溢れる嘆きが聞こえたが、白峰には無視された。本物の聖母だってきっと二度も救済はしない。


◆◇◆


 さて、どうしようか。
 幽霊棟に帰り、勢いで買い込みすぎた荷物を部屋に投げ出しながら、槙原から受け取った缶を眺めた。
 一度話題になったときに興味本位で手を伸ばしたことがあったが、コーヒーが欲しくなるようなコーヒーだった記憶があった。しかし不法投棄はよくないし、食べ物を粗末にするのはもっとよくない。白峰は両親の教育を概ね守る優良な息子だった。
 誰かにあげようか。しかし今は確か修羅場中の彼を除いたみんなが外出中のはずで、その彼に対してはわざわざ部屋に訪れてまで頼みごとをしたくはない。確認不足だったことをからかわれるのは目に見えた。
 悩んだ末、白峰は食堂に向かった。

“誰か飲んでね”

 さらりとペンを走らせ、メモの上に缶を置く。字で誰が書いたかはすぐ分かるだろう。槙原がこれを見つけたらどう感じるだろうかと一瞬悩んだが、まああの教師はきっと気にしない。この程度を気にするようなら、多分彼は振られはしなかっただろう。
 今日は忙しいのだ。買い出しメモを眺めながら、ため息を付く。大晦日くらいゆっくりしたい。けれど約束は約束だ。時間も差し迫っていた。


◆◇◆


 幽霊棟の大掃除はそこに今住まう瞠たちの仕事だ。学生寮時代は大勢の生徒との分担だったから楽だったが、決して狭くはない教員寮を五人の生徒+一人の教師でやるのは思っていた以上の労働だった。去年はそれどころではなかったから、実質二年分の汚れ。
 元々誰も入居していなかった施設だったのだから、これまで通り業者を入れるという話もなかったわけではない。瞠たちも受験生なのだから無駄に時間をとられるわけにはいかない。しかし、結局は自らの手で行うこととなった。幽霊棟は、彼らの城だ。
 去るその日までは。

「あれ、ハルたん、どしたの?」

 無心に掃除をしていたら少し疲れた。休憩しようと食堂に訪れると、今日は一日幽霊棟を離れると言っていたはずの白峰が身軽な格好で立っていた。

「荷物が増えすぎちゃって。一回置きに。瞠こそ今日教会に行くっていってなかった?」
「喧嘩した」

 誰と、とは言わないが。むすりとした久保谷の姿を見てか、白峰が苦笑する。彼の考えていることを正確に読みとって、久保谷はすこしだけ顔を赤くしたが、引けないものは引けないのだ。

「って、なにこれ。誰か飲んで?」
「あ、そうそう。槙原先生が間違って買って途方に暮れてたから」
「間違ってって、自販機だよな? どうやって。……誠二に飲ませてやろうかな。仲直りに」
「神波さん? 神波さんって薄味とかの方が好きそうなイメージだった」
「そうだよ、さすがハルたん」
「瞠ってば……。あ、じゃあ辻村と一緒だ」

 複雑な顔を隠さない久保谷に再び苦笑する白峰にどきりとした。

「もう日がないんだよ、瞠」

 俺はいくね、と軽く背を向ける白峰を見送る。
 準備があるから、間に合わないから。
 間に合わなくなるから。
 お祝いの日はもうすぐで、そして、お別れの日も。


◆◇◆


 クリスマスを過ぎれば概ね学校は落ち着くが、それは一般の生徒の場合。茅はすでに生徒会を引退しているものの、なんだかんだ信頼は篤い。別に手伝う義理はないのだが、親しい友人たちに諭されるうちになぜかこうなっていた。言うまでもなく実は受験生なわけなのだが、誰も茅の受験を心配などしていなかった。巻き込まれた斉木がぶつぶつと文句を言っていた。
 諸々の用事を終えて教員寮に戻ってみると、食堂の机の上に缶が置いてあった。

「白峰の字だ」

 見慣れた彼の字を見分ける自信はあった。
 休日にまで登校しなければならなかった疲労感を癒したかったところに彼の字だ。できれば本体と会いたかったが、今日は予定が色々とあると言っていた気がする。お祝いの準備には時間がかかるらしいのは、二千年間祝われ続けている救世主の誕生祭を毎年行う学園に過ごす限りよく知っていた。
 誰か、とあるが、それは自分でも良いのだろうか?
 ぼんやりと缶を手に取ると、一心不乱に廊下掃除に勤しむ久保谷の姿が目に入った。学園祭の日派手に切り落とした髪型に三角頭巾を被れば、彼に捨てられたアイデンティティの残骸は形跡すら奪われる。

「久保谷。これは?」
「んー? あれ、帰ってたんだお帰り」
「今ちょうど。久保谷、これは?」
「コーヒー。ハルたんが誰か適当に飲んでいいよって……ってこれ冷蔵庫入れた方がいいんじゃねーのかなこれ」

 親の敵か何かのようにハタキを振るう久保谷の姿に鬼気迫るものを感じながら、手にしたコーヒーのプルタブを開け、口に運ぶ。
 すごい味がした。

「……思ったより甘い。缶コーヒーってこういうものなのか?」
「え、飲んだことないの!?」
「ボタンがたくさんあるじゃないか、自動販売機」
「い、いやいやいや」

 驚く久保谷にいっそ胸を張る。三つ以上のボタンがある機械は無理だと公言してはばからない茅であった。

「あーと、それ普通のコーヒーじゃなくて、ちょっと変わり種っていうか」
「白峰はわざわざこんな罠を?」
「そうじゃなくて、それマッキーがって」
「槙原先生の仕業……?」

 いやそうでもなく! と慌てる久保谷に首を傾げていると、懐に振動を感じた。電話だ。
 ディスプレイに表示された名前を見て茅は目を見張った。珍しい。

「悪い、久保谷。また後で」
「あ、うん……。いいか、マッキーだし……」

 言い足りない言葉の代わりにため息を吐き、再びハタキを手に取った久保谷を後目に、茅は自室へと向かった。
 毎日でも会っていたいのになかなかその機会に恵まれない相手からの連絡。階段を登りながら通話ボタンを押すと、名乗りもせず相手は話し始めた。

『俺だ』
「もしもし、茅です。津久居さん? 珍しいですね、あなたから電話なんて」
『今どこにいる?』

 律儀に挨拶をする茅の言葉を聞く姿勢も取らず、彼の人は端的に話す。どことなく口調から機嫌の悪さが伺えたが、彼が愉悦を全面に出す姿は滅多に見ないから、特に怒らせたというわけではないだろう。これが彼のデフォルトだ。問いに首を傾げつつ正直に答える茅に、彼は自分の命令に従わない人間などこの世にいない自信があるかのように告げた。

『よし、ちょうど良い。出てこい』
「は? 今どこにいるんですか?」
『幽霊棟の前だ』
「……メリーさん?」
『なんだそれは』
「電話で近づいてくるんだと、辻村が白峰に言ってました」
『小学生かお前らは。いいから来い、荷物があるんだ』

 小学生ではないが、指示に従った。
 茅は誰かの命令に従う事を概ね当然と考えている側の人間だった。


◆◇◆


 車にもたれ掛かって茅を待っていると、まもなく重たげな扉が開いた。遅ければ文句を言ってやろうと待ちかまえていたが、あくまで彼は優秀で忠実な子供だった。自分より彼の方が犬っぽい。そう思うものの、下手に口に出せば不快な思いをすることは想像できた。犬に関しては実際の大型犬の存在があるだけに若干不利だ。
 近づいてくる茅に車のトランクを指し示す。そこには人一人は入れそうな大きな箱が狭苦しく積まれていた。

「こっちへ向かう途中に春人がいたからな、話しかけたら運べと言われて、こうだ」
「神波さんの車ですね」
「バイクで運ぶのは無理だろ。借りた」
「白峰は?」
「まだ買うものがあるんだと」

 つまりはパシリに使われたらしい。両手首を軽く振るジェスチャーは、重くて仕方なかった、というものだ。春人は荷の積み上げを手伝いはしたが基本的に非力だ。それは「もやし」とあだ名した津久居自身がよく知っていた。あの荷物をどこからどうやって運んできたのやら。
 そして彼を散々恐怖に陥れた腕力を持つ茅と二人であれば、幽霊棟までの運び入れはそう大変なことではなかった。しかし何が入っているのか。厳重に封がされた箱の中身はまさか正月飾りではあるまい。……いやまさか。
 ぶつぶつと文句を言いつつ荷物を食堂の隅におく。白峰の部屋まではさすがに自分で何とかさせる。そこまでする義理はないし、そもそも部屋には鍵がかかっているだろう。

「茶くらい出ないのか?」

 一息ついて、食堂の椅子にどかりと津久居は座る。客人として扱ってほしいならばそれなりの振る舞いをしろとは辻村の言だったが、茅はさして気にした風もなく辺りを見渡した。
 つられて振り返ると食堂の入り口近く、廊下の片隅にハタキと三角巾が置かれていた。誰か掃除でもしていたんのだろうか。その近くに携帯電話も放置されていたが、これは忘れ物だろうか。見覚えはあるが誰のものだったかまでは思い出せない。
 家事のセンスは無いに等しい茅のことだ、おそらくは誰か代わりになる人を捜したのだろう。だが人の気配はない。困った風に考え込む彼は、しかし何かを思い出したかのように「あ」と呟いた。

「そうだ。コーヒーなら」
「コーヒー?」
「すごくまずい」
「……なんでそれを俺に飲ませようとする?」

 まさか今更反抗期でも来たのか。
 彼の家庭環境はなかなかに特殊だったからそういうこともあるのか? 職業柄思わず思考を巡らせかけた津久居に、茅が続ける。

「槙原先生の買ったものらしいので」
「それで?」
「こんなに不味いなら、先生は津久居さんに飲ませたいだろうなと」
「……おまえは気を使ってるのか使ってないのか、何なんだ?」
「ちなみに白峰の字で好きに飲めと、書き置きが」
「最低だな槙原……」

 白峰の字なら油断して罠にかかるだろうという作戦か。それでも教師か。最低だ。
 悪態を吐く津久居の横で、シンプルな着信音が鳴った。自分のではない。
 携帯電話を取り出して表示を確認する茅がわずかに目をみはった。

「今日は珍しい電話が多い……。すみません、津久居さん、まだ居ますよね?」
「さあな」

 悲しげに眉を下げた茅の姿を見て、津久居は少しだけ気分をよくした。存在を必要とされるのは気持ちがいいものだ。
 やはり彼の方が、よっぽど犬のようじゃないか。


◆◇◆


 携帯電話は秘密兵器だ。和泉にとっては特に。これさえあればなんでもできるのだと信じている。なのに。
 機嫌の悪さを隠そうともせず、彼は土を蹴りとばしながら歩いていた。部外者は入り口で追い払った。携帯電話を忘れてさえいなければ、この気分の悪さをぶつける場所に思い悩むことはなかっただろうに、どこに忘れてきたのだろうか。
 幽霊棟の姿を確認すると同時に、見覚えのある車を発見した。教会の車だ。そこに乗り込もうとしている人物も。

「どこか行くの?」
「ん? 咲か」

 和泉の瞳が獲物を見つけた獣のように輝いた。

「春人の荷物を運んできたんだがな、間違って一緒に春人の鞄も車に積んできたらしい。携帯と財布がないとやばいって電話が来たからな……ったく、何で俺が」
「携帯ないのに電話?」
「槙原の元彼女といるらしい」

 なるほど、携帯電話が見つからなかったらその手段を使おう。
 しかし珍しい組み合わせだ。たしか白峰は正月を盛大に祝うための準備のための買い出しに行っているはずだった。じゃんけんで負けるのはいつも彼だ。
 何故鳥沢が津久居の携帯番号を知っているのかは敢えてふれないで置く。後で槙原に言いつけてやろう。以前行ったという合コンで交換したのだろうが、きっとおもしろい反応が見れるはずだ。

「そうなんだ。久しぶり賢太郎。もっと来てくれてもいいのに」
「ここまで入り浸ってる部外者も珍しいだろうよ」
「住んでたしね」
「誰のせいだ」
「清史郎」

 言い返す言葉もなく津久居は呻いた。あの事件の発端を思い出したらしい。和泉たちは何も知らずに巻き込まれたのだ。別に住まわせたくていたわけじゃない。振り返れば綱渡りのあの監禁生活……監禁させ生活? も辛いばかりではなかったけれど。

「で、何機嫌悪くしてるんだ」

 思わず精神の拠り所たるアイテムを探しかけた。が、はたと気づく。そうだ、どこかに忘れてきたのだった。
 持ち前のポーカーフェイスを崩して和泉はむくれる。

「……花を撃退してた」
「撃退?」
「遊びにきたって」
「この大晦日にあの新婚夫婦は……」

 幽霊棟には一種の治外法権ができあがってしまっているらしく、学校とは思えない開放振りを見せていた。
 教会があるとはいえ、普通ここまで部外者が平気で寮に入り浸れはしないだろう。本来は教員寮であるが、学生が住んでいる。何か起こったらおそらく全て槙原の責任になることは確実だったから、他の教師は見て見ぬ振りをしているのだろう。

「というか普通寮って正月には追い出されないのか」
「槙原先生がいるからね、平気」
「なるほど、いざとなったらあいつが首になるだけか。なら平気だな」
「賢太郎はここでお正月? 嬉しい」
「まあどうせ暇だからな。お前ら全員と過ごせるのもこれで最後だろ?」

 “最後”の言葉が胸に突き刺さる。そう、その通り。槙原も津久居も神波も、きっと大人たちは今のまま変わらずいてくれるものと信じているが、仲間たちはまだまだ未来がこれからだ。各々の大学で人間関係を築き、確かな繋がりは僅かな電波だけ。それも今のように道具がなくては成り立たない。花との関係が変わっていったように、終わりはある。
 それは新たな始まりでもあるのだと、文化祭で振り切ったつもりではいたが、寂しいものは寂しいのだ。

「おっと、そろそろ行かないと春人から殴られそうだ。じゃあ、後でな」
「春人は暴力振るわないよ。だからもっと話そう」
「殴るかもしれないだろ? あいつだって、時には必要だって思うようになったかもしれない」

 ――そんなことあるわけない。
 和泉は口の中で呟いた。

 発進した車を見送って、和泉は幽霊棟の扉を開けた。さて、大切な携帯電話はどこにあるだろうか。食堂でいじったところまでは覚えているから、ここにあるか、それとも自室か。
 食堂内を見渡すと、机の上に缶コーヒーが置いてあるのを見つけた。興味を持って近づくと、缶の下にメモ。

「誰か飲んでね」

 ふーん、と和泉は缶を持ち上げた。開封済み。文字は白峰のもの。もう一度何かを納得したかのような声を出す。ふーん。
 和泉は楽しいことが好きだ。特に、気に食わない事があった後には、全身全霊で今を楽しむべきだと思う。全てを振り払うために。
 思いついてからの彼の行動は早かった。


◆◇◆


 ぱたぱたと廊下を駆ける足音が聞こえる。走るなと何度言っても無駄なのはよく知っていたが、うるさい。イライラとペンを握りしめると、ノックもなく自室の扉が開いた。

「煉慈」
「出てけ」

 和泉だ。

「いいか? お前らのお祭り騒ぎに巻き込まれて原稿が真っ白なんだ。これ以上付き合えるか」
「明日はお正月。お祝いしないと」
「知るか……!」

 高校生最後のクリスマス。昨年の分も騒いでやるとばかりに幽霊棟のメンバー+数人の大人たちは遊び倒し、そして辻村にはそのしわ寄せのまっただ中だった。その上で正月までバカ騒ぎしている暇はない。ーー結果的に誰よりも楽しんでいたのが誰なのか指摘されようとも。
 叔父の形相で和泉たちはそれを知っているはずだったが、まあ間違いなく自分には関係ないこととして処理しているだろう。叔父を怖がっていたはずの彼らは、ここ最近慣れつつある。

「遊びにつきあってる暇はない。用があるなら手短に済ませろ」
「差し入れ」

 黙っていても和泉は引き下がらない。三年弱程度のつきあいではあるがよく知っていた辻村が一応促すと、彼は珍しすぎることを言った。差し入れ? 和泉が?
 差し出された缶コーヒーを思わず受け取った辻村は、訝しげな表情をさらに深くする。

「開封済みじゃねえか……」
「春人と間接キッス」
「キッ……!?」
「煉慈、顔赤い」

 違う、驚いただけだと必死になる辻村に、和泉が面白そうに笑う。何がどうしてそういうことになるのか。白峰が自分の飲みかけを差し入れとして和泉に持ってこさせたとでも言うのだろうか。彼は素直ではないし、自分で持ってくるのは恥ずかしかったとかーーいや意味がわからない。意味がさっぱりわからない。そもそも何故口をつけた。

「飲まないの?」
「いや……あ、後でな。そこに置い」
「今飲んで」

 有無を言わさぬ迫力に押し負け、辻村は缶を受け取った。男同士で間接キスもなにもない。ない。
 恐る恐る飲み口に唇を付け、

「あ、っま!」

 吹いた。

「みんな大好き練乳入り」
「おま……! なんだこの暴力的な味は!?」

 うええと舌を出すがそれで味が消えるものでもない。白峰の事は一気に頭からふき飛んだ。辻村は薄味派なのだ。
 和泉がものすごく楽しそうな顔をしている。はめられたのだ。この同級生は、時折こういうことをする。

「出てってくれ! 叔父貴が来ちまう」
「正月にまで原稿用紙に張り付いて楽しいの」
「やりたくてやってるんじゃねえよ!」
「吾朗に伝えておく」
「やめてくれ……!」

 辻村の悲痛な悲鳴を背景に、和泉はぱたりと扉を閉めた。
 彼はきっと決行するだろう。

 和泉に集中力をかき乱されてから、辻村のペンは全く動かなくなっていた。あの乱入から執筆モードが抜け落ちてしまったらしい。
 小さく悪態を呟いて、食堂に行くことにする。口の中がまだ甘ったるい気がしてならなかった。白峰はこんなものが好みなのか。お子さま舌すぎる。後で文句を言わなければならないと決意する。
 手に例のコーヒーを持って、旧館に向かう。食べ物は無駄にしてはならないから、とりあえずは冷蔵庫に入れるべきだ。辻村は几帳面だった。
 食堂への扉を開けた瞬間、軽妙なメロディーが聞こえてきた。見渡すと、掃除道具と共に置かれた携帯電話。廊下に無造作に置いてある。確かあれは久保谷のものだ。辻村は常識を持った男だったから、人の携帯電話を勝手に操作することはしない。
 無視して台所のシンクを覗くと、使ったまま洗っていない皿が一枚。誰だ。腹を立てつつ洗っていると、再び軽妙なメロディー。しつこい、というか、この頻度は相当急ぎの用事なのではないだろうか。ならば電話を掛けてきた人に携帯電話の主が携帯すべきものを放置している旨を知らせるのが親切というものだろう。
 まあ一応、と着信のディスプレイを見ると、見慣れた文字。なるほど、そう気は進まないが、こいつなら許されるだろう。携帯電話を手に取り、通話ボタンを押す。


◆◇◆


 出ない。何度かけても出ない。こんなスルースキルを教えた覚えはない。着信履歴を全部埋めてやろうか。想像して、自分で引いてやめる。
 ない。さすがにそれはない。

「はー……」

 喧嘩をした。
 別に今に始まったことではないけれど、今やることはないと自分でも思う。きっかけはいつだって些細なことだ。今回は何が発端だっただろうか。電話をして何を話すか決めているわけではない。殊勝に謝るつもりがあるわけでも全くない。
 ただ、少し、情けなくなった。いつだって身近にいた彼がこの手を放れて行く。……いや、それも今更か?
 時計を見る。もう大晦日の夕方だ。明日には年が変わり、そして彼らの卒業までのカウントダウンが止まることはない。
 もう一度短縮で彼の番号を呼び出すと、長いコール音の後、今度こそ繋がった。

「もしもし、瞠くん?」
『神波は久保谷の携帯にかけておいて、久保谷以外が出ることを想定してるのか?』
「……」
『辻村だ』
「それは分かるよ……」

 その無意味に腹立たしい言い回しは、間違いなく神波の血縁者の成せる技だ。別に通話者を確認したくて名前を呼んだわけではないことくらい、分かるだろうに。

「で、なんでレンレンが瞠くんの電話にでるの? そんなに瞠くんは俺と話したくない?」
『ん? 久保谷と喧嘩でもしたか?』

 しまったと唇を噛む。彼曰く久保谷はどうやら携帯電話を純粋に置き忘れていたらしい。よりによって、この鈍感で不器用なくせに人の触れてほしくない部分だけは察しが良い辻村に悟らせるなんて。忌々しい。それこそが血族の成せるなんとやらだとは思いたくはない。

『ふーん……今どこにいるんだ?』
「え? 教会だけれど」
『分かった。行くから待ってろ』

 唐突に尋ねられて思わず素直に答えた途端に切れる通話。来る? どうしてわざわざ。
 わけが分からなくて神波が首を傾げていると、間もなくして扉が開いた。本当に来た。私服の上にコートを軽く羽織り、寒そうにしている。かけているメガネは執筆時のものだろう。確か彼は今修羅場なのだと誰かが言っていた気がする。

「ほら」
「……なにこれ」
「久保谷の携帯」
「それは分かるよ……?」

 予算がないが故のシンプルな携帯電話は、他の誰のものでもないだろう。
 しかし渡されても困る。神波が持っていても彼と繋がるわけではないのだが。

「お前から返せばいいだろ」
「え。どうやって」
「拾ったとか言えばいいだろう」
「いや……だからどうやって」
「ないって気づいたら誰かの携帯借りて久保谷がかけてくる」

 なるほど――って。

「レンレンが気をきかせるなんて……」
「おい」
「原稿が進まなくなって気晴らしに来たとしか思えない……」
「うるせえよ人がせっかく……!」

 本気で驚く神波に辻村が激昂する。これ以上機嫌を損ねると携帯電話を没収されそうだったので、黙って受け取ることにする。ありがとうと軽く礼を言えば、たちまち彼の表情は明るくなった。扱いやすい。
 しかし本当にこれを入手してどうするべきか。

「まあこんなものなくても幽霊棟で正月祝いするから、神波も来ればいいんだろうが」
「前にも断ったでしょ。俺は行く気ないよ」

 残念そうな表情を隠しもしない辻村にも、別に胸は痛まない。痛むのは目の前にいる彼自身にではなく、かつての自分の行いの結果だ。以前よりは随分人間関係も落ち着いたが、自分で歩み寄る勇気は未だなく、頻繁に来る誘い対する答えはいつも同じだった。

「……悪いと思ったら、素直に謝ればいい」
「レンレンがまともなことを言うなんて……」
「お前な……!」

 心を読んだかのようなタイミングで小さく呟かれた言葉に、心臓が止まる。
 唖然と発せられた返事に怒って辻村は叫ぶが、神波の耳には入らない。謝れだなんて、まさかこの彼に言われるとは。いつだって辻村は相手が折れるのを強制してきたというのに。
 どうやら着実に彼らは大人になっていっているらしい。この一年で随分と色々なものが変わっていった。

「あとついでにこれも。置いてくるつもりが間違って持ってきた」
「何これ」
「コーヒー」
「だからそれは分かるってば……」

 やけに毒々しい色をした缶が差し出される。間違ってって、それはもしかして持って帰るのが面倒だから押しつけるとかそういうことなのか。そしてどうしてこんなにも偉そうなのか。
 腑に落ち無いながらも、わざわざ修羅場中に足を運んできてくれたのだ。好意なのかなんなのかは不明だが断るのも悪いだろう。
 素直に受け取っておこうと手を伸ばすと、辻村がぎょっと身を引く気配を感じ、そして。
 叫び声が木霊した。


◆◇◆


 不可抗力だと、後に槙原は語った。
 早朝まで飲んでいた相手の姿を遠目に見て取り、ふと集中力が切れたのだ。だから、運転なんてしたくないって言ったのに。
 やはり津久居のことは好きにはなれない。出会い頭に卑怯だと罵られるし……白峰の名前を使って罠にはめた? 彼は一体いつもなにと戦っているのだろうか。槙原の身に覚えはなかった。
 運転なんて出来ないと散々訴える槙原を無視して車を置いていったのも彼だ。最低だ。パシリよりも白峰との買い物のほうがそれは勿論楽しいだろうが。楽しげに二人連れ添って行ってしまった姿を思い出して怒りがわく。白峰の先生は自分なのに!

「あ、あああ、あぶねえだろ槙原!」
「すすす、すみ、すみません! ああ、でも無事でよかった。怪我はない?」」
「さいあく。これのどこが無事なの」
「すみません……」

 人殺しになる事態はどうにか避けた。ブレーキの場所を間違えることはなかったし、脱輪も免れた。
 突撃してくる車に驚いた辻村と神波がもつれ合い、缶の中身が思い切り神波に降り注いだのも、人が死ぬことを思えば軽いものだろう。

「う、ぺっ。しかも何この暴力的な味。レンレンこんなのくれようとしてたの?」

 神波の感想に辻村が微妙な顔をする。なに、と神波が尋ねると、なにも、と返す。辻村の煮えきらない態度は珍しい。いつも何の根拠もなく自信満々なのに。まあ、コーヒーを頭から被った情けない兄の姿にはさすがの彼も口ごもるのだろう。まさかほんの少し前に実の弟が同じ台詞を言ったとは思いもしなかったし、知る由もなかった。

「この車、賢太郎に貸したよね。なんで槙原先生が運転してるの?」
「今日は色々あったんです……」

 色々ね、と神波が皮肉げに顔をゆがませるのが分かる。ただでさえ容赦なく昨日は酔い潰したから、不機嫌なのだ。酔った彼は色々なことを喋ってくれるから槙原は嫌いではなかったのだが、彼の機嫌は槙原が気分をよくすればするほど急降下する。気難しい人だと思う。

「す、すみませ、本当にごめんなさい」
「……槙原先生って、俺のこと嫌いでしょ」
「いえ好きですけれど」
「…………」

 神波が頭を押さえた。この寒い中液体を浴びて寒いのだろう。地面に落ちた缶には見覚えがあった。朝方に白峰にあげたものと、その後再び間違えて買ってしまったものと酷似しているように思えるが、まあどちらでもいい。深いことは気にしない。しかしあれは甘かった。甘すぎて死ぬかと思った。
 横に立つ辻村の顔色を伺ってみるが、彼は彼で槙原に怒りの目を送っている。ひき殺されかけたのだから当然のことだった。
 どうしたら良いものかと狼狽えていると、神波が小さくくしゃみをした。このままでは風邪をひくだろう。

「あああごめんなさい。シャワー浴びてってください、あと着替え」
「いいですよもう、牧師舎帰りますから。良いお年を」
「ちょうどみんな揃って来てるころでしょうから、ついでにお正月お祝いしましょう。服は辻村君のでいい?」
「おい槙原、勝手に……」
「いやだからこそ嫌なんだけど、って、ちょっと、ひっぱらないで!」

 辻村が背後で呆れた声を出したが、止める気配はない。
 車はどうするのかと言われた気がしたが無視をした。とりあえず学校の敷地内には持ってきたのだから、後は津久居なり教会の人間なりがどうにかするだろう。もう運転はしたくなかった。


◆◇◆


 槙原と神波、辻村が幽霊棟の玄関をくぐったのが分かった。話し声が近づいてくる。神波まで来てくれたのは良い誤算だった。久保谷と喧嘩していたらしいし、あのぐずは来ないかもしれないなとちょっと思っていたのだ。
 思っていた以上に大人数。久保谷、茅、白峰、和泉たち寮に住む子供は少し前から騒がしく蕎麦を茹でる準備をしていた。辻村がいないと勝手が分からないと思い思いに鍋やら調味料やらを引っ張りだしている。皿が割れる音がした。なぜ和泉はチョコレートを持っているのだろう。
 辻村吾郎は原稿でも受け取りに来たのだろうか、正月だというのに熱心なことだ。肝心の甥がいなくて苛々している。石野夫妻は楽しいことが好きだから、招待をしたら普通に来てくれた。和泉の妨害にあったようだが彼らは強い。さらに鳥沢や南、辻村寛子までいる。所在なく立っているのは用務員の落合。

「お、槙原。生きてたか」

 津久居が槙原に呼びかける。一番来てくれそうにもない彼は、仕事の都合をつけてくれた。それが罪悪感によるものであろうが、招待を無視しないでくれるならば嬉しい。津久居はなんだかんだ言って甘いのだ。

「人殺しになるところだったけれどね。一生恨む。ってあれ、ゆっこ! ゆっこじゃん」

 鳥沢が槙原をあしらう。台所の様相に辻村が怒る。石野夫妻は自分たちだけの空間を作り、そのことへ和泉が不満を漏らす。
 楽しげな空間にうきうきする。今日は大晦日。明日はお正月。楽しめることは、全力で、全身で楽しまなければ。

「あ、瞠くん」
「なに……って、なにその格好」
「槙原先生に殺されかけてね。……で、これ」

 この二人が喧嘩をしているのだとこっそり教えてくれたのは白峰だ。確か、喧嘩をするほど、とか、犬も食わない、とか、なんだかそんな感じらしい。
 神波の方から話しかけていくとは思わなくて少しだけ驚く。その悲惨な姿にも驚く。知らない間に、一体どんな面白いことがあったのだろう。

「なんで誠二が……」
「ひ、拾ったから?」

 差し出された携帯電話に、久保谷が眉を顰める。その胡乱げな目線に神波はたじろぎ、次の言葉を発せないでいた。
 うん。見直しかけたけれど、やっぱりぐずだったらしい。一人納得して頷いていると、久保谷の声が柔らかく崩れた。

「いいよ、もう」

 仕方ないな、というその顔。その微笑は苦笑に近かったけれど、とても優しい。
 神波の耳元で更に彼は何かを言ったが、ここからでは聞こえない。神波の複雑そうな反応を見るになんとなく予想はつく。クリスマスにも、正月にも、忙しいからと幽霊棟のお祭り騒ぎに入ろうとしない彼を久保谷は気に病んでいた。
 風呂場へと追いやられる神波に、槙原が声をかける。返事をする神波の言葉こそきついが、心底怒っている風ではない。
 視線を台所へと向かうと、更なる悲劇が生まれていた。チョコレートの入り込んだ蕎麦を囲んで途方に暮れる子供たち。犯人は反省の色なくそっぽを向いている。目線の先は黄色の携帯電話だ。

「ところで、清史郎は?」

 賑やかな様子に満足する。本当はハロルドも呼びたかったがさすがに無視された。来てくれないなら次は彼の屋敷を会場にしてしまおうか? 次は節分。ひなまつりだって騒いでやる。何でもない日だって何かの記念日にしてやればいい。GWも夏休みも、呼び出せばきっと来てくれる。彼らが誘いを無視したりはしないと、よく知っていた。
 自炊歴が何気にこのメンバー内で一番高いだろう津久居が呆れながら蕎麦を食べれる状態にしてやろうと苦労しながら、茅に話しかける。

「清史郎?」
「俺は清史郎に呼び出されたから来たんだが……こっち来てから一度も会っていないぞ」

 自分が満面の笑みになるのが分かる。窮屈な自分の周りにはクラッカーや暇すぎて紙を千切りまくって作った紙吹雪、雑多なおもちゃやそれから明日食べる予定の餅やらお菓子やら、思いつく限りのものが詰まっている。さて、これをどう活用してやろう。
 白峰へ預け、津久居と茅二人で幽霊棟に運び入れて貰った大きな箱が、ガタリと揺れた。


 ――彼の演出が、始まる。


ネヴァジスタに出会え、楽しい一年が過ごせました。
24年もまたネヴァジスタで過ごすのでよろしくお願いします!


◆ もこもこ
◆ @mokoanko


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