時計は午後十一時を差していた。
 湯を求めて食堂に向かった僕は、淡い光の灯った空間で、ぼんやりと窓辺に佇む御影君を見つけた。
 寝間着に半纏、加えてマフラー。着ぶくれた姿はいかにも寒さと対峙するためのもので、なんとなく立ち寄ったという体ではない。
 吐息で指先を温めながら、御影君は窓の外を見つめていた。誰かが来るとは思っていなかったのだろう。硝子に映った僕の姿に、彼は振り向いた。
「見つかっちゃった」
 悪戯っぽい笑いを零した彼に、僕もつられてちいさく笑う。二人分の白い吐息が音もなく流れていった。
「……どうしたの? もう消灯時間だよ?」
「先生、見逃して! あと少しだけでいいから!」
「こら。この前も、その言葉で徹夜したでしょ」
「うん!」
「もー、そんな笑顔で肯定して」
「本当に、あと少し!」
 一途に拝まれて、次の言葉につまる。頑なになれないのは、彼の『お願い』に裏がないからだ。ここですることがある。そんな熱心な願いを拒否してしまうのは、あまりにしのびない。
 懸命ともいえる姿に苦笑して、僕は仕方なしに眉を下げた。
「しょうがないなあ。……約束だよ。あと少しだけ。徹夜はしないって」
「うん! たぶん!」
「……笑顔で『たぶん』なの……?」
「だって! ……だって、さ」
 落ち着かない様子で、御影君は窓の外に目を向ける。
「いつになるのかは俺も分かんないんだ。……ねえ、先生。いつになったら、雪は降り始めるのかな」
 お互いの唇から、白いものが流れて、――消えていく。
 重い雲で蓋をされた、寒い一日だった。石油ストーブの匂いが広がる校舎で、誰もが体を丸めていた。職員室のテレビでも、夜半から雪が降るといっていたっけ。
 今更ながらに冷え込んだ空気を思い出して、僕はふるりと体を震わせた。
「雪が」
 白い吐息を見送るように、御影君は静かに続けた。
「降り始める瞬間を、見たくて」
 悪戯っぽく笑った頬には、――裏腹な、何処か寂しげな色が見え隠れしている。
「で、先生は? お茶? お酒?」
「え、……あ、僕?」
「こんな時間に下りてくるの、珍しいし」
 流石に焼酎のお湯割りのためにとは言い難い。
「……ココアでも淹れようかなって。御影君も、飲む? 飲むなら、淹れるよ?」
「いいの? 飲みたい! ありがと、先生!」
 花が綻ぶような屈託のない表情に、――知らず、僕は安堵の息を零していた。
 たぶん僕はこの子の寂しげな表情を見たくなかったのだ。

 ココアの支度をしている間、御影君は窓の外から目を離さなかった。その双眸は深い闇だけを見つめている。冷えた空気の中で、彼は何処までも静かだった。
 窓硝子に映った御影君に、普段の明るいものはなかった。癒しきれない痛みを抱えた、孤独な老人のようだった。
 普段の御影君の振る舞いは夏休みの小学生を思わせるのに、ふとした表情が彼の印象を大きく左右した。
 なにを見つめているのか。なにを見据えようとしているのか。僕には少しも分からない。臆病な僕は御影清史郎という人間に踏み込めずにいる。未だに。
「一人でいると」
 白い息を棚引かせて、御影君は呟いた。
「考えなくてもいいことを、考えたり。……思い出すのがつらいことを、思い出したり。……だから、みんなの気配がするところにいたくて」
 流れた言葉が静かに消える。熱にさえ、ならない。
 二人分のマグカップに湯を注ぐ。ココアの甘い匂いも、彼を振り向かせることはできなかった。
 窓の外にはなにもない。彼の双眸は闇だけを見つめている。
 僕はなにも言えない。彼もなにも言わない。僕たちの間には、もっとも話したいことも、分かってほしいことも、たくさんあるのに。それなのに。
「……どうぞ。熱いから、気をつけて」
「ありがと」
 差し出したマグカップを、彼はちいさな笑みで受け取った。
 部屋に戻ろうと思えなかった。彼がなにかを、――普段は触れられないなにかを口にするような、そんな気がした。もしかしたら、――彼も僕にそんな期待をしていたのかもしれない。
「……寒くないの、先生」
「ん、まあ。冷えるよね、ここ」
 御影君の隣に並んで、窓の外を見つめた。
 僕の目に映るのが寒々しい夜の景色でしかなくても。彼には、なにか別のものが見えているのだろうか。僕には見えない、なにか。別の、なにか。
 真夏の象徴のような少年の横顔が濃い陰影に彩られている。伏せられた目は、――ひどく。
「……御影君」
「……なに? 先生」
「……寂しいの?」
 瞠目した御影君は、僕に目を向けることなく、――体の中のなにかをこらえるように、ゆっくりとうつむいた。
 秒針の奏でる音がやけに大きくて、――耳に痛い。
 沈黙が続くこと、しばし。苦笑というに相応しい笑いを零して、彼は肯いた。
「……たぶん」
 彼の笑い方は写真の中の彼とは似ていなかった。あるいは、子どもたちの話の中の彼とも。僕の目には彼の兄と似ているように見えたけれど、次の瞬間にはそれとも違うように思えた。
「今の時期に遊んでられないのは、俺にも分かるし」
「そう、……だね」
「……でも、俺だけが置いていかれるのは少し寂しいよ。自分で選んだことなのに、悔いたりする。得たものもあった。だけど、取り戻せないものも、確かにあった。……変わっていくものを、俺が引きとめるのは傲慢だし。……そうでしょ、先生」
 棚引く吐息が消えてから、御影君はマグカップに口をつけた。あち、と、――零れた声にちいさく笑う。
「あ、旨い。……なにこれ。いつもと違う?」
「おなじだよ。少しだけ、入れ方を変えてみた」
「どうやって?」
「牛乳を使うんだよ。沸かしたのを入れるんじゃなくて、少しずつ注いで沸かしてくの。そうしたら、ココアの粉が残らない」
「すごい。先生、意外と器用!」
 甘いものに喜ぶ姿は子どもそのものでありながら、彼の思考は子どものそれではなかった。
 変化を理解しながら、――それでも、寂しさを押し隠せない。今の彼は子どもと大人の境にいる。たぶん、彼自身もそれを自覚しているのだ。
「僕の、……なんとなくの、勘だけど」
 でも、と、――取り縋るような気持ちで、思う。
 急がなくていい。そんなに急いで、大人にならないで。
「みんな、……君の声を、待ってるのかもしれないよ」
 誰かの言葉を聞いたのではない。いつも見ているから、分かった。子どもたちの気配は寂しさを抱えていた。御影君がちいさな疎外感を覚えたように、他の子どもたちも彼の声が遠ざかる日々を寂しいと思っている。
 変わっていく自分。変わっていく世界。それでも変わらない繋がりを、彼の声で感じていたいのかもしれない。
 大きな双眸がまっすぐに僕を見つめている。
「……なんで?」
 他の感情を伴わない、――何処までも純粋な疑問だった。
「なんで、……先生は、そう思うの?」
 だから、僕も、――その目をまっすぐに見つめ返した。
「御影君の提案はなにかが始まりそうな気がするから。なにか、……楽しくて、忘れられなくて、いつまでも大事にできるものを与えてくれそうな、……そんな気がするから」
「特別なものなんか、俺、……なにも」
「……君がくれるのは特別な非日常じゃない。明日に繋がっている日常の、別の一面だよ」
 とろりと甘いココアの匂いが夜を漂う。
 僕と彼の間の溝はその甘さで柔らかに埋められていく。
「……みんな、君と過ごす時間を待ってるよ」
 ココアを手で包みながら、御影君はくすぐったそうな笑みを零した。
 そこには、さっきまでの寂しい気配はなかった。きらきらと輝き始めた双眸は見知った子どものそれだった。
「雪の降り始める瞬間を見たいよ。……どんな音をさせて、世界は初雪を降らせるんだろう?」
 その瞳の煌めきは世界を鮮やかに彩る。彼の好奇心が夜の闇さえも宝石箱に変えてしまう。
 彼の声は魔法の歌だ。
 彼の提案に、みんなが振り向いて。彼の言葉に、みんなが走り出して。
 これまでの、――彼が始めた長い物語のように。
「……先生。消灯時間は見なかったことにして」
「大丈夫。ここの時計、遅れてるから。……消灯時間はまだ先じゃないかな」
 目を瞬かせてから、僕の言わんとすることに気づいたらしい。御影君は嬉しそうに笑った。
「……さて、僕は先に寝ようかな。おやすみ。御影君」
「うん! おやすみ! 先生!」
 白い湯気と棚引く吐息の向こうで、御影君の表情が華やいだ。半纏の隙間から携帯電話を探り出そうとしているのが、去り際の僕の視界の端に映った。
 深い闇に雪が降るまで、あと少し。
 食堂には御影君一人しかいないというのに、瑞々しいまでの活力が伝わってくる。好奇心に突き動かされた彼に、怖いものはなにもない。
「煉慈! なあ、起きてるだろ。寝てないだろ。もうすぐ、雪が降りそうなんだよ! みんなでいっしょに見ようぜ! ……もー、いいじゃん、なんでも! ……ああ、もう! 分かんないやつだな! ……俺が! みんなといっしょに過ごしたいんだよ!」
 食堂を出た途端、賑やかな招待状が送られていく。子どもたちが動かない道理がない。それは彼らが望んでいた日常だった。

 やがて、――冷え切った空気が微かに緩んで、真夜中の幽霊棟が少しだけ熱を帯びた。
 辺りを忍ぶ気配がここまで伝わってくる。抜き打ちのイベントに心を踊らせて、子どもたちが集まり始める。食堂の扉をくぐったら、夏の色をまとった少年が彼らを待っている。
 彼の声は魔法の歌。
 彼の提案に、みんなが振り向いて。彼の言葉に、みんなが走り出して。そして、ときには大人も巻き込んで。
 そうだ。たぶん、僕はそんなに嫌ではないのだ。彼の持ち込む厄介事を、――そして、彼自身を嫌いにはなれない。
 去年も、今年も、彼が中心の日々だった。疲れを覚えなかったといったら嘘になる。でも、それより、――彼の見せてくれたもののうつくしさで、心を充たされた日々だった。つらいこともあったけれど、――それでも、あの時間を忘れることはない。
 階下の気配は次第に濃密になる。
 温いココアをすすりながら、優しさをまとった真夜中に目を細める。
 窓の向こう、――静かな闇に、未だ雪はない。
 雪が積もったら、なにをしよう。なにをして、過ごそう。今頃の子どもたちはそんな話に興じているのかもしれない。
 何気ない時間を煌めきに変えて、――どうか、十年先もみんなで笑っていてほしい。どうか、ちいさなことを大きな喜びにして。どうか、あらゆることに楽しみを見い出して。
 祈るように、吐息を零す。見えない神さまには祈らない。子どもたちの未来に向けて、祈る。
 どうか、――あの子たちの時間が光で満ちますように。いつまでも、あの子たちが並んで歩けますように。

 見つめた窓の向こうに、一片。音もなく。
 今年初めての雪が子どもたちの元へと降り始めた。


ネヴァジスタ一周年、おめでとうございます!
こんなに素敵な作品に出会えたこと、心から感謝しております!
これからもネヴァジスタの輪が広がりますように!


◆ 米々
◆ @uma_kome


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