箒星のように、遥か彼方を目指して、どこまでも駆けていきたいといった。
 お前ならできるよとあなたはわらった。

 津久居くん、飲みに行こうよ。
 逸早く逃亡を図った賢太郎をすかさず捕まえて、槙原は居酒屋に転がり込んだ。これでもかと刺々しく睨む賢太郎を見事なくらいスルーし、いつもので!と上機嫌に注文する。馴染みの店員は二人を見やってはいよと気さくにこたえた。どうして彼が少しだけ笑っていたか、賢太郎は考えたくなかった。けれど逃走の気力はもはやここにきて急速に萎えた。酒は悪くない。酒は。問題は誰と飲むかだ。
 一瞥すれば、槙原はもう一足先に寛いだ表情をして、注文品が届く時をそわそわと待っている。見るからに触り心地のよさそうな頬を、きつくつねってやりたいと思った。ので、そうした。槙原は痛いと悲鳴を上げた。子供みたいな素直さで。
「仲がいいですねえ」
 そんなわけない。賢太郎は懐から煙草とジッポを取り出し、火をつけると、荒んだ気分を紫煙に混ぜこんで吐き出した。その間中、隣からぽんぽん噴出していた不平不満は、ジョッキが届くとすぐにおさまった。現金だ。
 新しく入ってきた教員の中にも、わりあい気の合う者がいるにはいるらしい。けれど、飲みにいく相手はまだいないみたいだ、と子供たちからこっそり聞いた裏話が、賢太郎の脳裏で再生される。もう今年度も後半に差し掛かろうというのに、そんな体たらくとはいかがなものか。おまえ早く飲みの連れか彼女作れよ、と賢太郎が言うと、槙原はやたらめったら煙たそうな顔を作り、当て付けのようにペースアップした。こいつとの酒の席はいつもこれだから飲む気が失せるのだ。
 どのみち、槙原はぐだぐだと賢太郎を相手にくだをまきたいだけなのだと、何度か渋々飲みに付き合ってからやっと気付いた。どうせそういった腹なんだろうなと薄々感じてはいたが、はっきりそれと認識してしまうと、よりいっそう憎たらしくなったのが実情である。おまえは女子かと言ってやりたいところを、ぐっと堪えて酒で飲み下すのは恒例だった。
 何せ、こっちだって社会人なんだ、暇じゃないんだと訴えれば、じゃあいつ暇なのと素面で訊いてくるような男だ。このままだと半年後の休日の予定まで握られるんじゃないか、と賢太郎が秘かに戦々恐々としているのを、たぶん槙原は知らない。
「最近ね、清史郎くんすごく頑張ってるんだよ」
「そうか」
「勉強は勿論だけど、お金貯めてバイクの免許取るんだーって」
「……あの学校はバイト禁止じゃなかったか?」
「そうだよ。だからこっそり色んな人の手助けをして、って………あーっ」
「いきなりなんだよ」
「君に言っちゃいけないんだった……!」
「はあ?」
 わなわなと震えもって、槙原はどうしようと蒼白な顔で呟く。そこまで動揺するほど深刻な話じゃないだろ、と賢太郎が冷静に述べる前に、パニックに陥った槙原は出口を探して周囲を見回す。机上には、殆ど彼一人で空けたに等しい空の酒瓶ばかり並んでいる。槙原の目はその内の一本に留められた。
 空になった一升瓶から賢太郎にスライドして戻ってきた眼差しは実に不穏な色を帯び、この先の剣呑な展開を予想させるには、いっそ残酷なほど十分だった。覚悟を決めたらしい槙原の目が据わる。これが危険信号以外の何だというのだ。賢太郎は椅子を引いた。しかし槙原は引いた分だけ迫る。
「……津久居くん」
「殴っても記憶は消せないぞ」
「やってみなきゃわからないよ」
 やってみたら死ぬだろうが!
 賢太郎は心の中で叫んだ。酒気が泡と化して弾け飛ぶ。物騒な展開になってきたなあと暢気に彼らを見守っていた店員を引っ張りこんでまで槙原を宥めにかかった末、物理的な記憶消去法から何とか気を逸らすことに成功した。バイク云々に関しては何も聞かなかったことにして、知らないふりをするという案で、一応事態は解決の目を見た。けれども、酔いも覚めてしまった賢太郎は痛切に思った。暫く、こいつとは飲みたくない。しかし同時に一ヶ月前にも同じようなことで慨嘆したのを思い出し、猛烈にむかっ腹が立ったので、気持ちよくほろ酔い始めた槙原の頭を叩いて鬱憤を晴らした。なにするの!と目をつり上げた槙原のあんまりな迫力の無さに、賢太郎はついつい笑ってしまった。


 件の清史郎の免許取得の話は賢太郎を大して驚かせなかった。以前から、清史郎は二輪車を扱う雑誌を眺めては、賢太郎にどれを格好いいと感じるか尋ねてきたり、もしバイクを購入した暁には一緒に走ろうとねだってきたりしていたのだ。これだけの前ふりがあって尚隠したいと考えたのはなんというか、どことなくくすぐったい感じがしてならない。
 賢太郎がバイクの免許を取得したのはいつの時分だったろう。清史郎の歳には既に持っていたことは覚えている。急く理由はなかったと思うのに、若い賢太郎はすぐにバイクを手に入れて燃料の許す限り走り回った。それこそ歌に歌われているみたいに。けれど、バイクといえば、それより先に想起されるのは苦い記憶だ。
 ちょうど、弟から届く手紙の数々を重苦しく感じていた頃だった。だからだろう。バイクを走らせると、幼い子の腕が背にしがみついているような幻覚に度々襲われた。自転車で買い物に行く際、清史郎を後ろに乗せていた記憶が、背中に残っていた。暖かい思い出は、呪いのように忌むべきものへと変貌していった。
 清史郎に自転車の乗り方を教えたのは賢太郎だった。しかし、教えたことなんて実際片手で足りるくらいに少ない。いってみれば、賢太郎はただ付き添っていただけに過ぎなかった。
 自転車に乗った清史郎は、そのままどこか遠くへいってしまいそうだった。
 それは当時の自分の追い詰められた心理を反映しただけなのだと、今なら判る。
 けれど、本当にそうだろうか。
 本当に、賢太郎だけがそう思っていたのだろうか。
 


 春休みを利用して、清史郎が遊びにきた。意気揚々とバイクに跨がって。
 正直、見違えた。バイク自体は知り合いが安く譲ってくれたのだと言う。その知り合いとは走り屋か何かだったのか?と賢太郎は反射的に溢れかえった戦慄を喉の奥に押し込めた。清史郎の人脈は計り知れない。ことこの弟に関して、細かい点に目を配りだすときりがなくなってしまう。ちょっとしたショックから我に返ると、賢太郎はいたって真摯に清史郎を褒めた。へへ、と少年の頬が面映ゆそうにゆるんだ。
 春が訪れたとはいえ、まだ肌に触れる風は冷たい。寒風になぶられて赤く染まった弟の頬をみとめ、賢太郎は会話もそこそこにして部屋に上がるよう促したが、すると清史郎は思いついたように二人乗りがしたいと言い出した。
「……おまえな、自転車じゃないんだから」
「わかってるって。大丈夫、煉慈と乗っても平気だったから」
 賢太郎は確信した。この大丈夫は信頼できない、信頼してはいけない方の大丈夫だ。間違いない。
「おまえとバイクは平気でも、煉慈は平気じゃなかったろ……」
「そういえばちょっと酔ってたっけなー」
 ちょっとじゃなくかなりだったんだろうな、と賢太郎は思い、煉慈を憐れんだ。たぶん今頃くしゃみでもしていよう。
 その話を踏まえ、再度清史郎はねだった。嫌な予感がしてならない賢太郎はそっけなく突っぱねたのだが、やむなく清史郎の強いプッシュに負けた。もうずっと押され負けているようで悔しい気分を味わいつつも、両手を上げてわーいと喜ぶ清史郎を見ると、そんな心地は徐々に薄れて消えていった。
 だが現実には芳しくない結果が待ち受けていた。昼食前の腹ごなしも兼ねてその辺を走ったものの、賢太郎が居を構えるアパートに戻る頃には、昼食どころではなくなっていたのである。九死に一生の体験を少なくとも三回は確実に経験したと思う。バイクから降りると足元が情けなくふらついたくらいだ。兄の威厳を保つため、清史郎の前ではごまかしたが、もうこれっきり、たとえ泣いて頼まれたって清史郎の後ろには乗らないだろう。将来的には車の助手席にも。結局の所、同じようなことを繰り返すに違いないけれど。
 二人は昼食を取ると今度こそ二人乗りでなく共に走りに行くことにした。さっきはどこそこまでとうるさく口出ししたので、今回は清史郎に任せて先導させ、賢太郎はその後に続いた。赤信号で止まる度、清史郎は賢太郎が来るのを待ってはにかんだ。
 一時間ほどバイクを走らせ、到着したのは春の海。湾岸沿いをとろとろ並走しながら、清史郎は海色に瞳を染めて話した。去年の夏にさ、賢太郎と一緒に歩いたよ。今日は兄ちゃんに会えるかなって。そう言われて海岸に目をやった。晴れやかな夏の午後、少年と犬が戯れる海辺。彼らだけ世界から切り取られたような、それはひどく穏やかなくせ、はっと胸を突かれる光景に思われた。 
 帰路には高速道路を選んだ。清史郎を好き勝手走らせてみたかったのだ。賢太郎の思った通り、清史郎はぐんぐん加速して賢太郎を引き離した。元々なかなかの馬力のバイクだが、清史郎に操られると元来の性能を凌駕して猛るようだ。小気味いいほど清史郎は前へ前へと駆ける。放たれた矢のように。発射された弾丸のように。空を往く彗星のように。
 あの子供はもう、賢太郎の背中にいつまでもしがみついていた子供ではない。
 愚かにも疎んだその腕を、今は優しい気持ちで想える。
 先を走る清史郎が振り返り、何事かを叫んだ。風に巻き込まれたその声に、賢太郎は闊達に笑って応えた。


一周年、おめでとうございます。
ずっとずっと大好きです。


◆ たかなし
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