風が冷たい。真冬の風なら殊更寒く感じる。
フェンス越しに薄暗い木々を眺めながら俺は煙草のフィルターから口を離し灰色の煙を吐いた。立ち昇る紫煙は風に飛ばされ闇に消える。
学生達の居る寮から校舎の屋上へと訪れてからどれくらい経っただろうか。
幽霊棟ではまだ賑やかな酒宴が繰り広げられているのだろう。馬鹿騒ぎをしていた学生達の屈託のないはしゃいだ顔を思い返しふっと笑みを零した。

フェンスに向けていた視線を前に戻す。そこにはこちらに背を向ける弟がいた。
何も言わずに寮を出た清史郎の後を追ってここまで来た。
呼ばれた気が、したからだ。
喋らない清史郎にあの日の既視感が過ぎった。
一年前の、清史郎の長い手紙が終わりを迎えた日を。

「槙原先生がいれば去年と同じだ」

背を向けたまま、笑みを含んだ声で清史郎は言った。
学生達に酒を注がれ続けて上機嫌に笑っていた槙原を思い返す。
お陰で俺の飲み分が予想より少なかった。
せめてと、晃弘と春人が少しでも確保してくれていたからまあいいんだが。
多分今頃潰されているのだろうか。それとも酒の方が尽きかけているのだろうか。
能天気に飲み続けていた男の顔を消すようにまた咥えていたフィルターを離し紫煙を燻らせる。
赤い本を片手に持った清史郎はフェンスの向こうの闇をずっと見ていた。
暗闇の向こうに亡霊を見ているのだろうか。俺が追いつめたせいで居場所を失くしてしまった、古川の。


「俺、いっぱい考えたよ。兄ちゃんのこと、先生のこと、みんなのこと、………鉄平のこと。この一年間ずっと」

「……」

「兄ちゃんはどうだった?この一年間何を思ってた?」


訥々と物語を朗読するように静かに語りかける清史郎の背中を黙ってみていた。
言い訳も弁解もあの日から何度もしていた。心の中でも、清史郎や他の誰かに対しても。
その間清史郎は何度、そんな俺に絶望したのだろうか。

「………、春頃に、晃弘の新車に同乗させられたな」
「いいな、俺も乗ってみたかった。でも晃弘の運転って慎重でつまんなさそうかな」
「一度乗ってみるといい。目がぶっ飛ぶぞ」
それは楽しみだとおかしそうに清史郎は笑った。
「石野さんの家で煉慈や咲達と御飯食べたって聞いた」
「他の奴らもいたぞ」
「ああ、ゆっこもいたんだっけ?」
「ああ、槙原にバレると面倒くさいから言うなよ」
「先生もう知ってるよ。この前兄ちゃんを殴るって息巻いてた」
「げっ」
「俺がちゃんと大丈夫だよって言っておいてあげたよ。先生が気にしても気にしなくてもゆっこにはもう彼氏いるじゃんって」
「容赦ねえな、お前」
俺が小さく笑うと肩を揺らして清史郎はくすぐったそうに笑った。
「創立祭では、ちゃんと咲のお願いも聞いてあげたな」
「俺、偉かった?」
「ああ、成長したな、清史郎」
褒められたと、清史郎は嬉しそうに笑い声を漏らした。


「……鉄平の、墓参りにも行ったんだよな?」
春人に聞いた。
静かな口調で清史郎は言った。
「……ああ」
そう短く告げた俺はじりじりと小さな火が指に近付くように減っていく煙草を地面に落としぎりりと踏みしめた。
それ以上清史郎は多くを語らなかった。
沈黙が二人の間に佇んだ。
清史郎の背中をじっと見る。
昔のまだ幼かった弟の小さな背中と重なることはもうなかった。当たり前だ。
あれから十数年も経ったのだ。
…大人になりたくないと泣いたあの日から、随分と長い長い時間が経ってしまった。
今の彼に自分はどう映っているだろうか。
それを聞くのが、少し怖い。
「沢山考えたと言ったな」
「……」

「答えは出たのか」

そう問うと清史郎はこちらを振り向いた。
あの日、俺達が閉じ込められていた部屋を彼が開けた時よりもすこしだけ大人びた顔。
その両目には様々な感情が絶えず揺らめいているように見えた。
目を細めるように清史郎は笑った。無邪気に笑っていた幼いあの頃とは違う、大人の笑みだった。


「…言わない」


いつの間にか空が白み始めていた。
フェンス越しの暗闇にあった校舎も淡く輪郭をとらえ始めている。
元より暗闇などなかったのかもしれない。木々たちが風に誘われるように揺れ動く様をみてそう思った。


「その本はどうするんだ」

清史郎の持つ本に目をやった。
赤い本。彼が作り上げたネヴァジスタ。
子供たちの、そして俺達大人の呪詛の象徴だ。
けれど清史郎はその本を愛おしむように大事そうに抱き締めた。

「俺の、大好きな人たちは全部この中にいるんだ」

慈しむような声音に俺は瞠目した。
俺達にとっては忌むべき本だけれど、清史郎にはもっと別の意味を持った本なのだろう。
コイツが何を思ってこの本を作ろうと思ったのか、その本当の意図を俺は知らない。

「でも…、俺も前に進まなきゃ、だよな」
愛おしむように本を見つめていた清史郎は切なげに瞳を揺らした。
桜が咲くころには瞠達はこの学び舎を後にする。
そしてその一年後には清史郎も卒業してしまう。
いつまでも同じ場所にはいられないのだ。例えそれをどれだけ望んでいたとしても。
「兄ちゃん、ライター貸して」
手を差し出す清史郎を訝しげに見ながらもライターを放り投げてやる。
弧を描いたライターは伸ばした清史郎の手に収まった。

夜が明ける。
新しい年が始まりを告げる。

薄明の空の下。
一年前のあの日と同じように、清史郎は泣いていた。
泣きながら、笑っていた。

「ごめんな、鉄平。
俺は、ネヴァジスタに行けない」

昇る太陽に背中を向けた清史郎は火のついたライターを本の下にかざした。
ごうごうと燃えていくネヴァジスタに、大粒の涙をこぼし小さくしゃくりをあげる清史郎の頭を俺は黙って抱き締めた。
ネヴァジスタにいる亡霊にこの子供が連れて行かれないよう。
強く、強く。


一周年おめでとうございます!
ネヴァジスタの中でもこの兄弟が大好きです…!


◆ めろどら
◆ @tatiba87


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